本の紹介
  038
  2012年
 5月 3日

 『日本文明77の鍵 @』   梅棹忠夫 著  
                            文春新書

                         次回は5月 4日(毎金曜日)の予定
本の紹介の
目次へ

ブログの
ページへ


  77の内 1〜10まで

1 群島
日本は二言○キロメートルの朝鮮海峡をはさんていたため、大陸からの圧力を直接にうけることは、
一二世紀のモンゴル遠征車の襲来をのでいて、なかった。
しかし、使者をおくり必要な情報をもちかえるという、白発的な接触によって、
自国の文化をたしかめる行動はたやすことがなく、決して孤立していたわけではない。
つまり海上の適当な距離は、大陸からの侵略、大量移民などの圧力をよわめ、
学問、技術などの情報をとりいれるためには、ちょうどよかったのである。 

2 森林
 日本の地形は急な削料地がおおく、草地の維持がむっかしいという生態学的条件があり、牧畜は発達しなかった。
したがって牧畜による森林破壊はほとんどなかった。また古代日本人は、特定の出や森には神がやどると信じたため、
ほとんど人の手の人らないひろい面積の原生林が各地にのこることになった。
 時代がすすむと人口がふえ、木造家屋のたちならぶ都市ができる。また鉄が一般化するにつれて、
精練用木炭生産の需要による、森林への圧力はつよくなる一方だった。
その結果、江戸時代には西日本の一部では森林がアカマツなどのやせた二次林となり、それがさらにすすんてハゲ山もおおくなった。
しかし、一般的には当時の消費量にくらべて森の生産力はたかく、森林はよく保持されていたといえる。
それは地方政権が、森林をまもることで地形の崩壊や洪水がふせげることを、経験的に知っていたからである。
治山治水は水田の収穫をあげ、国力を豊かにした。さらにかれらは、材木の経済的価値に注目し、
植林の奨励や伐採の制限などで、森林の保護、育成にっとめた、
それは、ヨーロッパの領主が狩場の保持のため森林の保護造成をしたことと、結果的にはよく似た現象だといえる。
 最近の統計では、日本の森林面積は国土の七〇パーセントにちかく、その比率はスカンジナビア諸国とほぼ等しい。
全地球の森林面積が陸地の約三〇パーセントであることとくらべると、その率はたかく、日本は森林国だということさえできる

3 四季
 日本は四季の変化が明瞭である。
また、日本人は自然の変化に敏感な民族といわれ、四季のうつり加わりに応じて、
衣装や家具を加え、旬の食物をあじわい、風景の変化をたのしむといった習慣かある。

4 世界最古の土器
土器が発明された年代は、現在のところ日本が世界でもっともふるい。
最近(一九九九年)、青森県大平山元I遺跡では、器壁についた炭化物から一万六五二三年前という年代がだされた。
土器−農緋とかんがえるならば、土器がメソポタミア文明圈で発明され、そこから世界へ拡散したという一元説、拡散説による従来の学説が否定されたのである。
すなわち、東アジアでは、すでに晩氷期の段階から独自に農耕へのうごきがはじまり、その中心のひとつは日本にあったということになる。

5 貝塚
現在日本には二000以上の貝塚が発見されているが、そのほとんどが縄文時代のものてある。
貝塚をもつ遺跡は、一般的にいって、定着性のつよい大型のものがおおい。
それはひろい生活領域をちち、海と海岸に対する採取技術を高度に発達させていたためである。
たとえば縄文貝塚では、早期の段階ですでに釣針、モリ、漁網用オモリなど、基本的な漁具はほとんど出そろっており、
その後の時代では、それらをより精巧化させていっただけてある。
 縄文時代中期の中里貝塚(東京都)の上うに、大量の単一種の貝が集積されたものは、
交易用の食品製造所であったとかんがえられる。漁業の専門化が、すでにこの時代から発生していたことは確実である。

6 航海と交易   7神殿都市
8米の経済
米と日本文叱のかかハりぱおおきい、まず第一は、米が日本人の主食として二000年以上利用されていることである。
第二に米の生産性による人口支待力のたかさがあげられる。稲作は水田という特殊な施設を利用することにより、
肥料はすくなくてすみ、しかも連作が可能であるという利点がある。
国土の一石八ーセントしか農地に利用できないという地形的な制限にもかかわらず、
完全な自給自足の状態で、一九世紀初頭には人口三五00万、一平方キロメートルあたり一00人とい高人口密度社会ができあがっていたのである。

9日本人はどこからきたか
 縄文時代になると一万体以上の人骨が発見されている。
最近の研究は骨の形状やサイズだけでなくDNAをつかった遺伝学の参加がめざましいが、
それによって復元される縄文人の容姿は「角ばった寸づまりの顔、耳がふくよか、まゆが濃くまつげがながい。目がおおきい。
歯のサイズがちいさく、歯ならびがきれいで、受け口である。体はがっちりとしていて、とくに男は筋肉質だった。
平均身長は男が一五八センチ、女が一五五センチと小柄だった」というものである。
 つぎの弥生時代に日本人の形質におおきな変化が起こる。
北九州や近畿地方の弥生人骨には、顔かながく平坦、胴長で身長がたかいといった、縄文時代には見られなかった例があらわれる。

10 征服王朝
前方復円墳が突然巨大化する。
とくに大阪平野(現在の堺市あたとには応神、仁徳、履中など天皇陵に比定されるおおきな前方後円墳が集中している。
そのうち最大の仁徳天皇陵は四七・八万平方メートルの敷地のなかに、ながさ四七六メートル、最大幅三0五メートル、高さ三三メートルの墳丘をつくり、
それを二重の壕でかこんでいる。積みあげた土の量は、一四0万立法メートルである。
仁徳天皇陵の造成をシミュレートした大林組プロジェクトチームは
壕を掘削して墳圧にもり、不足分を近辺の段丘から客土し、そこに五00万個をこえる河原石を近在の川からはこんで葺石としたあと、
一万五000個の埴輪でかざると仮定し、これを現代おこなうと、一五年八カ月、のべ六八0万人を要し、七九六億円かかると計算している