9月10日 (土)     教師節


  これもまたみのりの一風景


   ブログのUPが故障、なんとか9月分には入れるようにしましたが
   「過去ブログ」今年の1月〜8月末までは当分入れません。
    回復でき次第、この欄でお知らせいたします。


プールに行かないとなると、生活のパターンも変わってくる。
「捨てる」ことによって生まれてくるものがある、ということの一例かも・・・
昨日は買い物がてら19000歩を歩いた。

今日もまた編み笠をかぶって家から庄王府まで歩き
境内を出会う人々と合掌の挨拶を交わしながらうろろ歩き、建物の陰に坐って
宮本輝編 短編集「わかれの船」から伊集院静著「桃の宵橋」一編を読んだ。
喫茶店とか河原のベンチとか自宅外の場で本を読むというはホントに気持ちがいい。

庄王府を出て、そのまま長虹公園まで歩く。
隣接の酒楼では結婚式の披露宴があったらしく爆竹がにぎやかであったが
園内の奥に入っていくと静かな蓮池があり、ベンチ連ながる広場で
林真理子の短編「四歳の雌牛」を読了。
地下鉄に乗って帰ってきた。今日の徒歩は13000歩ほどであった。

家に帰ってからすぐに風呂屋に行きゆったりと体をほぐして
テレビを看ながら酒を飲んで寝た。(ラーメンは昼飯である)

養老孟司の話から@ 諸行無常
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」
凡てのものは移ろい消えていく、というけれどもこの「平家物語」「方丈記」の
700年もの間 変化せずそのままの残っているではないか、
そうなんだ、「言葉」には音色があり、強弱・遅速・音程があり、
かすれたり、うわずったりもある。ところが「文字」となるとそれら一切が消去され
抽象化されて意味のみが残り、違う人格にも違う時代の人にも共有され、
普遍となって残り続ける。たしかに文字は偉大である。
しかし、それが発せられた時のかすれや遅速などについていた「感情」は
流れ去り、留まりたる例しはないのである。
文字から得られるものは「意味」なのである。意味だけではないかも知れないが
そこに追加された感情は発信者の感情ではなくて読み手の感情なのだ。
禅が「不立文字」というのはこういうところにあるのかも知れないな。



今日の「公案」      

   冷暖自知

              冷たい、あついは自ら肌で感じとらないと判らない  聞いて解るものではない       「正法眼蔵」











   9月 9日 (木)     重陽の節句  北朝鮮核実験実施


  みのりの秋 柿も好季節




宅配が来る予定だったのでイヤホーンをつけていると来訪が判らないので
朝からgacco「アンコールワット」と「レジャー産業」のダウンロード。

それでも未だ来ないので「魔術はささやく」宮部みゆき著 読了
巻末の「解説」井上次郎に
  巷にあふれている小説の大半は「描写」より「説明」を中心にしている
  あるいは描写を指向しても力量不足のために結果として説明に
  堕ちてしまう。宮部みゆきが際だつのはこの点である。
とある。うんそうだ! 大河ドラマ「花燃ゆ」が面白くないのは
描写が乏しくて説明ばっかりだったからだと納得した。
寅次郎し藩の逸材である、とか松下村塾自由に意見を闘わせる場である
などと登場人物にしゃべらせている、だからドラマとして面白くないのだ。

Eテレ「こころの時代 (自分を超えて)」養老孟司と誰かの対談
幾つか そうだなあと思ったことがある。
@ 諸行無常とは  A 自分とは  B 犬猫はどうしてしゃべらないか
C 変化を知る    D 自由とは  などである。
明日以降ひとつずつ思ったことをまとめてみよう。

いづれの日よりか片雲の風に誘われて漂泊の思ひが湧いてきた。
編み笠をを取り出して頭にいただいてふらりと歩き始めた。
家から国際大厦 日本人会に、ここで本を借りて、次いでオリンピック大厦に
ここで思い切り買い物をしてタクシーで帰宅、なんと編み笠を忘れてきた。
また、家から歩いてオリンピック大厦にとってかえし、続いて伊勢丹まで歩く。
歩いた歩数は19000歩 四国遍路一日の半分くらいだった。
いくら秋風に誘われても伊勢丹の買い物に、歩いていこうなどと思ったことは今まで一度もなかった。
やはり四国遍路の財産なんだろうかなぁ



今日の「公案」      

   落花流水はなはだ茫々

              花は散り、水はただ無心に流れる       「碧巌録」











   9月 8日 (木)     リオ パラリンピック開幕む


  みのりの秋 お百姓さんの笑顔が見える





昨夜来の雷雨もすっかり上がって
10年前の天津では考えられないような素晴らしい秋空である。
でもまだまだ残暑を引きずっている。日向に出ると暑い。
路肩には昨日の雨が残っており、バスに乗るにはジャンプひとつが必要である。

老人大学 太極拳42 後期の再開だ。
2ヶ月ぶりとあって前半は基本的な体の動かし方、後半が前期の復習である。
認知症気味の私には不思議なことに前期の動き、ほぼ覚えている。
前期の最後の方では、人の動きを見なければ全くついていけなかったのにねぇ
記憶って不思議だなぁ。
種のように脳みそにポトリと落ちて、やがて熟成してくるということもあるんだろうか?

写真のように屋外の駐車場で授業をやっているクラスもあった。
人数が少ないから授業じゃあなくて自主活動なのかも知れない。いいなぁ。

午後、プールに行った。1週間でなおると言っていたサウナ、まだ使えない。
あと一週間かかるという。そのかわり私の会員カードの期限を2週間延長とのこと
それはそれでいいんだけれど、またしばらくは「銭湯」に通わねばならんなぁ。

gacco「レジャー産業のイノベーション Week2」
日本では外食産業から中食産業に中心が写りつつるという。
総菜を買って帰って家で食べるという、まあいい傾向と言えるかも知れないなぁ


今日の「公案」      

   もし閑事の心頭にかかることなくんば
   すなわちこれ人間の好時節

                              「無門関」











   9月 7日 (水)     


  ガレージの上の ツユクサ 可憐




今日も一日 友人のパソコンと格闘していた。
一般的な回復はできているんだが、中国語の文章を
中国語の音声で読み上げるという部分が回復できない。
Wordアドインという機能らしいのだが、画面上にこれのアイコンは出る。
ということはこのプログラムは入ってはいるんだろう。
そのアイコンをクリックするとアドオン設定の画面になって
Word2013 か 2017 のどちらに設定するかと問われる
どちらを選んでも不可となる。いまこれに入っている Wordは多分 2007である。
インターネットでOffice2013の無料ダウンロードを探し入れてみたが
やはり機能しない。
マニュアルをじゅっくり読んでみると ChineseWriter10 を入力した後
ChinesWriter10学習プレミアムとかいうのをインストールせよ、と書いている。
その学習プレミアムというのが欠落しているのだ。

まあ、ともあれ夕方まで約10時間頑張ってパソコンを友人に返還。大変だった。

サウナの故障中ということでしばらくプールにも行けていない。
サウナは我慢するとしてもその間シャワーも浴びていないということなんだ。
家には風呂もシャワーもあるんだけれども長年使ったことがない。
(元々この家を借りることにしたのは天津では珍しく風呂があるからだったんだがなぁ)
ということで久しぶりに「銭湯」に行く。湯船で体を伸ばすのはホント気持ちがいい。
垢すりと足裏マッサージをやってもらって、そのあと1時間半ほど熟睡をした。

これも大変久しぶりに gacco「観光・レジャーの特製とイノベーション Week1」を聴講
観光とは? ということをもう一度見直すのにはよい話しだった。
スポーツ、趣味、娯楽、観光・行楽とあってその他の部門に
バーベキュー、昼寝、ペットなどと並んでパソコン、パブレット端末をあげられていたのは
ちょっと面白いやんか。ここ数日私はペットや昼寝と同類のレジャーをやっていたということだ



今日の「公案」      

   人の心を水にたとえると、水の形のうちはいいのですが、
   それが固まって永になってしまったら動きは不自由になってしまいます。
   もちろん、一度凍ってしまっても、あわてる必要はありません。
   もとは水なのですから、溶かせばいいだけです。
   凝リ固まった心は自分自身で溶かせます。
   呼吸法も一 つの手段だし、坐禅をするという方法もあります。

                                                                    「男の禅語」 P216











   9月 6日 (火)     


  今年もこの石垣にケイトウの花が並ぶ




昨日の友人のパソコン、やっぱりうまく動かないようだ。
再度 友人宅に出かけて色々やってみる。
何時間もかかって、どうやら Word が機能していないらしいと判る。
WordPad が動いているので Word 本体が機能していないと判るまでに随分時間がかかった。
仕方がないのでパソコンをわが家に持ち帰り、Office 2000 をインストールしてやると
友人の希望通りの表示になった。
が、今度は中国語での「読み上げ」が出来ないという。
今度は ChineseWriter10 というのを再インストールしてみた。
今までのMicrosoft の中国語ではなくて ChineseWriter の中国語が動き出した。
やった! と思ったらどっこい、こんどは Wordアドイン機能という
私が聞いたこともない機能が機能していないという。
Wordアドインというマークは表示されているから入ってはいるんだろう。設定かな?
まあ、あとは明日だ。今日一日も充実(忙しかっただけ?)していたし、
明日に期待をかけられると言うことはいいことだな、と思うことにしよう。



今日の「公案」      

   卒啄同時

            禅語   卒には口偏がついている











   9月 5日 (月)     


  鮮やかな秋海棠 ベゴニアとも言うそうな




友人宅のパソコンが言うことを聞かなくなったというので
診察に赴いた。といっても決して私がパソコンに詳しいわけではない。
ああでもない、こうでもないと一緒に悩んでみるだけである。
ついこの間まで正常(?)に動いていた、というので
1時間ほどかけてデーター全部保持しての初期化というのをやってみた。
初期化、インストール、調整等々えらい時間がかかっている間に
昼時となって昼食をご馳走になる。スペイン産のワインも一本開けて、
食事が終わった頃にはもうパソコンどころではなくなっていた。
まあ、今日・明日ぐらいはひとりで頑張ってもらって
やっぱりアカンということであればワイン抜きで、また二人で悩んでみよう

DVD「トイレのピエタ」
ピエタとは十字架から降ろされたイエスを抱くマリア像のことなんだそうな。
ふざけ半分のドラマ化と思って軽く見始めたんだが、
ずいぶん真面目な物語であった。ピエタとは十字架から降ろされた
イエスを抱くマリア像のことなんだそうな。知らなかったな。

要は余命3ヶ月と告げられた若者がどう生きるかという物語である。
私なら・・・という気持ちがずっとついてまわっていたので
ドラマの主人公よりも私の方がまじめであったかも知れないな。
ひとり四国遍路に出る、ということは出来るかな?
多分延命治療は望まないと思う、入院もしないかな。  多分である。
結局何もできないで閉じこもるのかな?
自分の履歴(例えばこのブログなど)は消そうとするのかまたは残そうとするのか?




今日の「公案」      

   自分は今迄、禅宗の所謂悟りということを誤解していた。
   悟りという事は、如何なる場合にも、平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、
   悟りという事は、如何なる場合にも、平気で生きていける事であった。

               正岡子規の日記より       「禅と日本文化 P101」











   9月 4日 (日)     


  鳥に食い残されたものでもこんなに豊かな収穫がある




29日 朝日「橋下&羽島」を看た。テーマは尖閣問題と北朝鮮のミサイルである。
本音の大激論と言ってよく面白いんだが、内容は中学生の議論並み。
橋下「尖閣は日本領だ。でも日本の政治家は尖閣に領土問題はないとの立場で
中国の進出に対応してこなかったのが悪い」というだけで、
だから日本としては今何をすべきという内容のある提案は何もなし。
  「壺霊 下」内田康夫著 読了
  DVD「検事の死命」 当然分かり切っている事実が後から新事実だったり粗雑
  プール サウナ故障中で消化不良



今日の「公案」      

   隻手音声

               「禅語」











   9月 3日 (土)  中国 抗日戦争勝利記念日   


  軒先にたわわに実るブドウ   多くは小鳥に食われるが収穫して喰うとたいへん美味しいという




このごろ日本のテレビをよく看ている。
まず、dマガジンで一週間分のテレビ番組を縦覧。看たい番組を書き出しておく。
定番は「プレバト」「こころの時代」「世界一受けたい授業」「しくじり先生」
「和風総本家」「橋下&羽島」「100分で名著」「Nスペ」「クローズアップ現代」
といったところかな。その他、「歴史秘話」とか「バラエティー番組」とか。

家のテレビは1週間分全番組自動録画なので先週日曜日の番組は今日で消える。
ということで28日東京テレビの「秘境の地からやってきた ダニ族一家来日」
という番組をみた。

このダニ族の部落というのは1993年12月に探検家 藤木高嶺先生につれられて
訪問したことがある。もう20数年も経っているけれど今でもまだ「秘境」なんだな。
表題以外の写真はその時に私が撮ってきたものの一部である。
このころでもすでに部落の外ではジープが走ったり、GパンTシャツ姿は
珍しいものではなかったよ。ここに集まっているダニ族の戦士たちなんかも
「出演者」として演じているんじゃあないかな。
平成の日本人が広場で浴衣を着て盆踊りをしているみたいなものかな。

夕方から「天津日本語教師会」の幹事会。
天津駅前の「津湾広場」内の大きな喫茶店で行った。
このところ教師会の参加人数がずいぶん減っているので
その対策についていろいろ話し合った。
かなり真剣に話し合ったんだけれど、さてその効果は ? である。

5時開始だったんだけれど少し早めに出かけて
海河沿いの散策路らぶらぶら歩いていたら
川岸の露店で結婚式をやっているのに出会った。
まあ、いろんなことをやるなぁ。

下の白い豆、あれ?何ちゅうなまえだったっけ?
明日くらいにはきっと思い出すんだろうけれど、今とっさには思い出せない。
アルツハイマーか認知症が老人性痴呆か、とにかくこんなことが毎日起こるよ。

五木・釈の「70歳!」の中から一節(これでお終い)

  釈「普通に暮らしていながら執着がない」ところが
     日本人の理想だったんじゃあないかと思います。

それは「死」ということについても「執着」しないということ、といっていいのかな?

「自殺」とか「自死」とかは絶望の末にやることなの?
「もうこれくらいでいいか」とか「まあ、そろそろ」とか「じゃあね」とかで「死」を選ぶのはあかんのかな?
生まれるのは自由に選べなかったし、泣きながら生まれてきたんだけれど
死は自分の意思で選んで、納得して微笑みながら死んでいくというのはあかんの?



今日の「公案」      

   功成り身退くは天の道なり

                   「老子  9章」











   9月 2日 (金)     


  ススキ 枯れると幽霊の正体ともなる尾花だが、これもまた秋の七草  




久しぶりに(50日ぶりぐらいかな)散髪に行った。
最短(ツイドゥアン)というと前回よりももっとピカピカになった。
不要洗髪というと散髪代が半額になった。
でも外を歩くとちょっと暑い(熱い)。
行きつけの散髪屋は左の「永h」で右の「文峰」は半日床屋なので行かない

床屋の帰りに「盲人按摩」に行く。これも久しぶりだ。
今日やってくれたのは若い男性で丁寧で上手だった。
時には下手で乱暴な按摩師に当たることもある。
きっちりとツボに当たるのでピリビリと痛い、
ううっと声が出そうになる直前でふっと力を抜いてくれる。
2時間80元のコースだったが心付け20元をはずんで100元。

昼は前の残りの「五木 日田風やきそば」
夜は明太子、玉葱スライス、イカ納豆、鰻の蒲焼き等々で
プレバトの俳句査定などを看ながら・・・・

そうそうそれから五木・釈の「70歳!」の中から一節(第4回目)

  五木「回りに迷惑をかけず、滑稽な印象も悲劇的な印象も与えずに
      淡々と自分で世を去って行くにはどうすればいいか、
      これは我々の世代にとっては切実な問題です。」

ここでもやっぱり「私の問題」ではなくて「我々の世代の問題」となってしまうんだなぁ




今日の「公案」      

   古の人も其の伝うべからざるものと与に死せり

            昔の人も、一番大切な、他人に伝えることのできないものは心の中に持ったままで死んでいったはずです   「荘子 天道編」











   9月 1日 (木)     関東大震災 防災の日 二百十日


  萩の花  秋の七草の一番にあげられる花




プールに言ったらサウナが故障という。
復旧に一週間はかかるだろうという。あれまぁ、
私がプールに行くのは泳ぐためではない。
ましたスポーツマシンを使うためでもない。
水中のストレッチ(30分)、シャワー(10分)、サウナ(60分)であるから
この喪失感は大きいよ。 でも、ここでまた
捨てることの練習、こだわらない修練をしなさいということか

gacco「アンコールワット研究 
     『人間』を考える総合学問としての新地平」開講。
中段は1999年4月、私がアンコールワットに行ったときの
スナップだ。なつかしい。聴講を楽しもう。

DVD「ゆれる心 ラブストーリーズ」
きのうの「人生の約束」が男の夢物語としたら
きょうは「女の夢物語」である。
きのうは拳固で頬っぺたを殴り飛ばすという場面
きょうは濃厚なベッドシーンというような
見せ場の違いがあるんだけれどもね。

五木・釈の「70歳!」の中から一節(第3回目だな)

  五木「いま、私たちが抱いている不安のひとつは死がいつ訪れるかわからないことです。
      五年後などと言われれば覚悟しようもありますが、明日かも知れないし
      さらには百歳まで生きるかも知れない。」

なんぼなんでも80歳までには、とは思っているが、「百歳まで生きるかも知れない」というのは確かに「不安」だな。
でもね、これは「私の不安」であって、「私たちが抱いている不安」って他人にも延長してしまうのは五木の宿業だな。


今日の「公案」      

   物 盛んなれば則ち老ゆ

            何ごとでも盛んなときが過ぎれば必ず老いて衰えます 「老子30章」