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  『トロッコ B』  芥川龍之介   2013.09.30.


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    『トロッコ B』  芥川龍之介
                                                 録音が少し長い(10分程度)のでダウンロードに時間がかかるかもしれません。


三人はトロッコを押しながらゆるい傾斜を登って行った。
良平は車に手をかけていても、心はほかのことを考えていた。
その坂を向こうへ下りきると、また同じような茶店があった。
土工たちがその中へ入ったあと、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。
茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が消えかかっている。
「もう日が暮れる。」彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。
トロッコの車輪をけってみたり、一人では動かないのを承知しながらうんつんそれを押してみたり、
・・・そんなことに気持ちをまぎらせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上のまくら木に手をかけながら、むぞうさに彼にこう言った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向こう泊まりだから。」
「あんまり帰りがおそくなると、われのうちでも心配するずら。」
良平は一瞬間あっけにとられた。もうかれこれ暗くなること、去年の暮れ母と岩村まで来たが、
今日の道はその三、四倍あること、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならないこと、
・・・そういうことが一時にわかったのである。
良平はほとんど泣きそうになった。が、泣いてもしかたがないと思った。泣いている場合ではないとも思った。
彼は若い二人の土工に、取ってつけたようなおじぎをすると、どんどん線路伝いに走りだした。
良平はしばらく無我夢中に線路のそばを走り続けた。
そのうちにふところの菓子包みが、じゃまになることに気がついたから、
それを道端へほうり出すついでに、板草履もそこへ脱ぎ捨ててしまった。
すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけははるかに軽くなった。
彼は左に海を感じながら、急な坂道を駆け登った。時々涙がこみ上げてくると、自然に顔がゆがんでくる。
・・・それは無理にがまんしても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹やぶのそばを駆け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もうほてりが消えかかっていた。
良平はいよいよ気が気でなかった。行きと帰りと変わるせいか、景色の違うのも不安だった。
すると今度は着物までも、汗のぬれ通ったのが気になったから、
やはり必死に駆け続けたなり、羽織を道端へ脱いで捨てた。
みかん畑へ来るころには、辺りは暗くなる一方だった。
「命さえ助かれば。」・・・良平はそう思いながら、滑ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕やみの中に、村外れの工事場が見えた時、良平はひと思いに泣きたくなった。
しかしその時もべそはかいたが、とうとう、泣かずに駆け続けた。
彼の村へ入ってみると、もう両側の家々には、電灯の光がさし合っていた。
良平はその電灯の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。
井戸端に水をくんでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平があえぎあえぎ走るのを見ては、
「おい、どうしたね?」などと声をかけた。
が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家の門口へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣きださずにはいられなかった。
その泣き声は彼の周りへ、一時に父や母を集まらせた。
ことに母はなんとか言いながら、良平の体を抱えるようにした。
が、良平は手足をもがきながら、すすり上げすすり上げ泣き続けた。
その声があまリ激しかったせいか、近所の女衆も三、四人、薄暗い門口へ集まって来た。
父母はもちろん、その人たちは、口々に彼の泣くわけを尋ねた。
しかし彼はなんと言われても泣き立てるよりほかにしかたがなかった。
あの遠い道を駆け通してきた、今までの心細さをふり返ると、
いくら大声に泣き続けても、足りない気持ちに迫られながら、……

良平は二十六の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。
今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。
が、彼はどうかすると、全然なんの理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。
全然なんの理由もないのに?・・・ 塵労につかれた彼の前には今でもやはりその時のように、
薄暗いやぶや坂のある道が、細々と一筋断続している。……