8月20日  (土)

「日本語教育世界研究大会」が天津外国語大学で行われている。
参加費600元ということで、私は参加をあきらめた。

友人が夕方から会いに(飲みに)来るというので、
朝から市場、スーパー、伊勢丹と走って(これを「馳走」と言う)
材料を仕込む。左の野菜は市場で買った物
これだけで10元(120円)というから安い。
この友人は糖尿とやらで肉系がダメなので
料理も大変だ。
酒もこの間まで1ヶ月間一滴も飲まなかったというので
どうしようかと思ったが
酒は飲めるというので(一人で白酒一本飲んでかえった)一安心
それで、今日のメニューは
 ・蝦の甘煮 ・刺身盛り合わせ ・鳥肉のグラタン ・ポテトサラダ 
 ・野菜スティック ・タマネギのスライス ・とまとシチュー
 ・冷や奴 ・たこわさび ・イカキムチ  である。

写真左は伊勢丹で買ったお弁当である。
初めて買ったんだが、あまり美味しくはない。
でも、品数豊富で結構楽しい。
   (売り場の残り物を集めたような気もしないでもないが)

スポーツクラブには一ヶ月以上行っていない。
明日は雨が降らない限りスポーツクラブに行くぞ!




(33)   2001年 7月 2日

エジプトにて

 カリメーラサス(こんにちは)
 バラカロー(すみませんが)と
 即席のギリシャ語を駆使して
 街を歩き回った。

 もう、このあたりまで来ると
 電車やバスに乗るのも少しも怖くない。
 考古学博物館を探していた時には
 たまたま日本語を話す老人に出合って
 家(事務所)に招待されて
 大分時間を過ごした。


 今回の写真は
 エジプトではありますが
 記事とは関連ありませんね
  上左のポスターは旅行中ほぼ毎日プリントして私の部屋の前に掲示したものである。GPSとプリンターと早起きが威力を発揮している。
  下の小さな写真はその時々のスナップである。説明や感想は左欄につけれたらと思っている。長旅だが、どうかゆっくりとお楽しみください。






 






8月19日  (金)

午前、CD付きの本や雑誌約150冊をリュックと旅行カバンに詰め、
翻訳学院に持ち込んで貰ってもらう。

そのあと、盲人按摩に。
というのは、たぶん家にこもってずっとパソコンに向かっていたためであろう
肩こりが歯にきて、ほっぺた右半分が腫れ上がってしまったのである。

休憩がてら本を読んだ。「大地の咆哮 もと上海総領事が見た中国」 杉本信行著
目次の一部を紹介する。

第一章 中国との出会い
  一、北京研修時代
     最初に覚えた中国語は「没有(メイヨウ)」
  二、瀋陽研修時代
     文革の十年がもたらした人材の空白  文革を知る人たちの醒めた視線
第二章 安全保障への目覚め(中国課時代)
  一、日本赤軍ハイジャック事件
  二、尖閣諸島問題
     領海侵犯を繰り返した中国漁船  反覇権条項にこだわった郭小平
  三、日中平和友好条約締結交渉
     日本を改革・開放政策のモデルに
第三章 対中経済協力開始
  ソ連後遺症に苦しむ中岡 円借款のスタート
第四章 日中友好の最高峰(第一回目の在中国大使館勤務)
  最良の親日派だった胡耀邦  胡錦涛の「靖国神社シンドローム」
第五章 ココムと対中技術規制(ココム日本政府代表時代)
  国家安全保障に鈍感な日本企業  大安門事件後の中国を救った目本
第六章 台湾入の悲哀(台湾勤務時代)
  一、台湾の特殊性
   近代化に猛烈な投資を行った日本  「犬が去って豚が来た」
  二、大阪APEC非公式首脳会談への代表出席問題
  三、交流協会の仕事
  四、平和な台湾の現状を維持せよ
第七章 対中ODAに物申す(二度目の在中田大使館勤務)
  地元の人たちに大歓迎された「草の根蒸しよう資金協力
第八章 対中進出企業支援(上海総領事時代)
  年々変化するチヤイナリスク  さまざまなローカルルール
第九章 深刻な水不足問題
  繰り広げられる「水」の争奪戦  深刻化する砂漠化とわが国の協力
第十章 搾取される農民
  農民を「外地人」と呼ぶ露骨な差別意識  先富論の悲劇
  土地を奪われ難民化する農民  実質三十倍に拡大する都市と農村の格差
  深刻な高齢化とエイズ
第十一章 反日運動の背景
  すべては共産党の正当性、正統性維持のために  「プロレタリア独裁」を放棄した江沢民
  不満のはけ口として反日暴動を黙認する政府
第十二章 靖国神社参拝問題
  胡錦涛政権が靖国問題にこだわる理由
第十三章 中国経済の構造上の問題
  富の再分配が機能せずに生まれた三重格差  金を貨すバカ、返すバカ
第十四章 転換期の軍事政策
  なぜ核兵器開発に躍起になったか
第十五章 嗚呼、在上海総領事館
  上海で毎年三十人以上の日本人が亡くなる理由
  高層ビルが林立する上海の弱点
第十六章中国の農村にCNNを(中国共産党と宗教)
  振幅の激しい共産党の宗教政策  中南海の要人をパニックに陥れた法輪功事件

そして、もうひとつ暇つぶしにDVDを見た。
これも、おもしろかったというよりなんとなく懐かしい風景。





・・・・・・ ぽろぽろと思い出すままに記す老いの繰り言のようなものである。同じことを繰り返していることもあるかも知れないが、お許しを。 ・・・・・・

つづいて、パソコンの話しだが、
外部記憶装置は電話の送受話器のようなものでテープに録音する方式だった。
プリンターもバカでかく
インクテープにカチャカチャカチャとタイプする方式だった。
グラフなどを打たせるとずいぶん時間がかかり、
一クラスの個人票を打ち台のに一晩かかった。






8月18日  (木)

今日も一日ずっと在宅。
貰ってもらう本を百数十冊選定した。
これでまた、書架にちょっと余裕が出来た。
教材等のファイルもかなり整理。
そうしている内にまたまた、記録用のCDが出てきた。
そこに書き込まれている文章もハンパではない。
上は今日の昼喰った「五木の茶そばで」ある。




(32)   2010年 7月 1日

アテネ近郊の港街

 アテネ近郊の港町ビレウスには
 6月30日午後に入港した。
 さすがアテネの最寄りの港である。
 華客船が何隻も停泊している。
 ここも去年来た所なので
 街をうろついて半日を過ごす。
 なんだか坂の多い街だった。

 ギリシャ海軍の軍艦と
 大型クルーザーが行き来する
 ゼアマジーナの海岸のテラスで
 大きなロブスターとタコを食べた。
 70ドル(船の人たちへの土産も含めて)と
 かなり高かったが
 十分満足できる景色と味であった。
  上左のポスターは旅行中ほぼ毎日プリントして私の部屋の前に掲示したものである。GPSとプリンターと早起きが威力を発揮している。
  下の小さな写真はその時々のスナップである。説明や感想は左欄につけれたらと思っている。長旅だが、どうかゆっくりとお楽しみください。












 






8月17日  (水)

年金が振り込まれる日なので午前中は銀行に行き、帰り「回転寿司」で寿司と味噌汁。
メニューにある物を注文すれば作ってはくれるんだろうけど
回転している寿司はみんなええ加減なものばかり

左は最近毎日のように出ている新聞広告である。
白内障、老眼、視神経萎縮、視力減退から近視にまで効く
「日本の発明」とうたっているのは「中国の発明」では
やはり脱線したり、追突したり、赤と青の区別がつかなかったりすると思われるかも知れないからであろうか。

「日記」の整理。メモ形式のから文章形式のに移ったとたん、大障害発生。
字が汚くで読みづらい、人の悪口や性的に内容などメモ化できないものの連続である。
結局、あきらめた。
また、日語教科書や問題集、朗読光盤付書物などの整理をしてどこかに貰ってもらおうと思う。

DVD「ハナミズキ」を見た。
「ハナミズキ」って草花かと思っていたら
こんな大木になる花だったんだな。知らなかった。
何ということもない淡々とした恋ものがたり
淡々としているところがいい。
「君と好きな人が百年続きますように」
なんか文法的におかしくないか?




・・・・・・ ぽろぽろと思い出すままに記す老いの繰り言のようなものである。同じことを繰り返していることもあるかも知れないが、お許しを。 ・・・・・・

私が初めてパソコンを購入したのは1980年ごろ。
当時発売されたNECのPC9800であった。
高さ10p、縦横50pぐらいの大きな箱と重たいブラウン管のディスプレーであった。
言語はBASICで、自分でプログラムを組んで動かした。
すべて独学で教材作製から成績処理プログラムなどを作った。
これはスピードを上げるために計算部分は機械語(0と1だけの言語である)まで勉強して使用した。
今から考えるとホントすごいエネルギーだったと思う。






8月16日  (火 五山の送り火)

日本では猛暑・猛暑といっているが、今日の天津はずいぶんと涼しい一日であった。
というよりも窓を開けていると風が寒く感じられるくらいであった。
これで「お盆」もおしまいということだろうかな。

朝から日記類の整理をはじめた。
中国に来てからの分であるが、
日記、リフル、手帳、メモ用紙、書き込み用カレンダー、
月刊予定表、年間予定表と何種類も何種類もあって大変だ。
主な出来事だけをメモして、全部廃棄してしまおうと思っている。
もし、私がこれから書くかも知れない小説が
ノーベル文学賞とかになって、久下順司全集などが発行され
「日記」なんてものが公表されたりしたら恥ずかしいもんね。
今から消しておくに限る。

夜は焼き鳥を食いに行った。
「鳥内会」というちょっとふざけた名前の店で
小さなあまり綺麗とは言えない店であるが
雰囲気が完全に日本の焼鳥屋だ。
「日本風」というのではない。
完全に味も雰囲気も日本だ。
こういう店は中国人もあまり好みではないんだろう
客も日本人ばかり、
そんなに高くはないし、また行ってみようと思う。

「世界一周の旅」 エルサレムをやっと無理矢理まとめた。
なんということはないようだけど、作業的にも気持ち的にもなかなか大変だったのです。




(31)   2010年 6月30日


エルサレムの人々の生活
  上左のポスターは旅行中ほぼ毎日プリントして私の部屋の前に掲示したものである。GPSとプリンターと早起きが威力を発揮している。
  下の小さな写真はその時々のスナップである。説明や感想は左欄につけれたらと思っている。長旅だが、どうかゆっくりとお楽しみください。
街のたたづまい

死海の体験
 






8月15日  (月 終戦記念日)

今日は66回目の終戦記念日だから一日家でおとなしく、と思ったけれど
料理酒や味醂が無くなっているので買い出しに出かけた。(終戦も料理には勝てないよね。)

時に「敗戦」のことを「終戦」といい、「占領軍」のことを「進駐軍」といい
敗戦、焼け跡、茫然自失のなかでも、
しっかりこういう言葉の使い分けをしていたのには感心するね。

その他は家でビデオを見たりして過ごした。
「いけちゃんとぼく」・・・・・とょっと中途半端に真面目という感じ
「Happy School Days」・・・・2話、わけもなく、ただおもしろい。
「ローカルボーイズ」・・・・・・わけもなさすぎてつまらない。途中で見るのをやめた。


中国人学生による学校紹介。 今日は大学の部である。
この大学は勿論天津商業大学のことであるる。

 @
  大学は ふつう 4年です。
  大学の上に大学院があります。
  大学に入ったら寮に入って集団生活を送ることになります。
  いい友達がたくさんできれば寄宿舎は家庭以上の憩いの場ともなるし、
  勉強ももっとできるってわけです。
  大学には 専攻がたくさんあります。
  私は 旅遊(サンズイ)を勉強します。
  旅遊専攻は100以上の人がいます。
  専攻課はマスプロ教育です。
  授業がないの時、図書館で新聞を読んだり、
  本を読んだりします。
  みなさん、よく図書館を利用しています。

 A
  私はこの商学院で二年間勉強しています。
  大学に入ってからは、以前の生活と違い、生活の内容が多彩になりました。
  以前は家で生活していましたが、今は、寮で生活しています。
  友達と一緒に住んでいます。○さんや○さんなど一番仲の良い友達です。
  毎朝、グランドに行って運動します。今は天気がいいので、
  運動したあとは、一日中元気です。
  大学で生活するのは便利です。
  本屋と商店とレスドランと理髪店と映画館などはあります。
  一番おもしろいのはお昼に食堂で多ぜいの人たちと一緒に御飯を食べることです。
  以前の生活では、こんなことはありませんでしたから。
  しかし、夕食の時間は早いです。
  夜に授業がある人にとって、授業が終わったら、すくことがあります。
  ですからおおぜいの人たちは夜食を食べる習慣があります。
  夜校内のレストランに入ったら、おおぜい人は話したり、
  ビールを飲んだりしながら、食事をします。とてもにぎやかです。
  大学で、旅遊(サンズイ)学、人力資源、市場営業(銷)など多くの
  専門課程を勉強しています。
  商学院の校内は緑が多く、とてもきれいです。
  私はこのような学校で生活することができで、とても幸せです。




・・・・・・ ぽろぽろと思い出すままに記す老いの繰り言のようなものである。同じことを繰り返していることもあるかも知れないが、お許しを。 ・・・・・・

婦人会の防火演習、空襲、疎開、配給などはかなりよく記憶しているが、
玉音放送や土下座など、終戦の日の記憶は全くない。
ただ、終戦からしばらくして
父が新聞を買ってきて「おい、新聞が出たぞ!」と
小学校入学前の私にも見せたのを覚えている。






8月14日  (日 旧7月15日 満月)

4時に起きてカツオ、塩昆布、梅干しのおにぎりと玉子焼きを作った。
5時出発、すぐにタクシーが来たもので、待ち合わせの場所で30分程待つ。
いまにも雨が降り出しそうな天候である。
バスはまずまず「豪華」といっても嘘ではない車両であった。
冷房が効きすぎて肩が痛くなるくらい、
往きはおにぎりを食ったりしてまあまあ良かったのだが帰りはつらかったなぁ。
なんでもはっきり言う中国人もこんな時は何にもいわないんだなぁ。

10時「南戴河 黄金海岸」に着く。
幅も奥行きもすごく広い海岸である。
おそらく日本に持っていけば(持っていくのは無理だけど)日本一じゃあないかな。
人も多い。でも、何か華やかさに欠ける感じた。
子ども若者も入るんだが誰もキャッキャッと明るく騒いでいない。
大人も何か義務的にスケジュールをこなしているような感じだ。
あんまりはしゃいだら誰かに密告されるんかな?
帰ってテレビで見たら日本の海水浴場も満員だったそうな。
確かにこの写真よりは込んでいた。海が狭いからかな?


天候は完全な曇り、でも水泳にも浜遊びにもどちらかと言えば快適な日和だ。
私は一応水着とタオルは持参したのだが、最初から泳ぎは諦めて
こんな中で一人でスイスイと抜き手を切ってもしようもないものな。

はじめから写真のような傘の下のベンチに寝そべって、
1時間ほどぼんやり、あと1時間半ほどは持参のワインを飲みながら読書
その途中「この席は有料(収費)だよ」と何度も言いに来る。
うんうんと頷くとそれでしまい。金の請求もせずに行ってしまう。
4〜5回目くらいの時、手招きして呼び寄せて払うからいくらだと聞くと
1時間80元だという。そんなバカな!
ガイド付き往復8時間のバス一日がかりで58元なんだぞ。
中国語は全く解らないフリして紙に「高!」と書いて渡す。
日本人かと聞かれて、
そうだと答えるとこんどは平仮名風の字で「けち」と書いて寄越した。「けち?」というと大笑いしている。
こんなのは解るらしい。
あとは大勢の係員が集まってきて筆談でやりとり(これが結構難しい、つい中国語が出そうになってしまう)
おもな話題は「地震の実際の被害状況は?」「放射能は、農産物は?」「復興は?」「政府はどうしている?」
等々である。いろいろ筆談で話して、最終的な結論は「政府不合格」「うん」と頷くと満足して解散した。
そのあと30分ほど本を読んでから、彼らの詰め所のようなところに「もう帰る、金はどうする?」と
聴きに行くと「いらない」というように手をふったので日本語で「ありがとう」「さようなら」と言って
その場を離れた。

集合時間まであと2時間弱あったので
海水浴場前商店街をうろうろ
コーヒー屋でもあったらと
思ったけど土産物屋と
海鮮レストランだけしかない
仕方がないので
写真の無料休憩所に座って
ワインを飲んで過ごした。

アルコールがかなり回ってからの帰りの冷房はきつかった。
結局家で iPod に入れてきた映画は全然見ないまま。

  「世界一周の旅」かなり無理して写真を詰め込んで、再開にこぎつけた。
  あちこちに散らばった写真を集めるだけで大変、紹介できなかった写真も多いが仕方がない。
  また、特にキリスト教関係の写真はひとつひとつ感想を述べたいのだが、それも割愛。



(30)   2010年 6月29日

聖地 エルサレム


 6月29日、

 コソボ、ユーゴ、ツチ族とフチ族と、
 このところ民族問題の講座がつづく。
 それも実際に紛争によしわってきた
 当事者が乗船しての話であり、
 また、オプショナルで現地で交流をしてきた
 人の報告である。
 非常に興味深い。

 そういった話の中で最も明るい話題は、
 9月13日までに独立を迎える
 パレスチナの話題であった。
 ひとつの国が生まれる歴史の瞬間に
 立ち会っているとの実感があった。

 本当にユダヤ、パレスチナの若者が
 船中で未来に向かって明るい顔で
 話し合い、手を握りあっていたのである。

 それが突然、私たちが東京に帰って
 しばらくした時、和平交渉の決裂
 以後、なんでそんなに、と思う
 紛争が続いている。
  上左のポスターは旅行中ほぼ毎日プリントして私の部屋の前に掲示したものである。GPSとプリンターと早起きが威力を発揮している。
  下の小さな写真はその時々のスナップである。説明や感想は左欄につけれたらと思っている。長旅だが、どうかゆっくりとお楽しみください。




 上はユダヤ・イスラム系の寺院等の様子である。(と思う)
 下がキリスト教系の風景である。(と思う)
 どちらの地区にも自由に入れた最後の観光団かも知れない
 私は高校時代からキリスト教徒だったので、
 特にキリスト教遺跡は興味深かった。


 






8月13日  (土)

明日は午前4時ぐらいには起きなければいけない。
そして、往の車中4時間、炎天下の浜辺5時間、帰りのバス4時間という日程である。
今日はその準備。
まず、 iPod に映画を3本ほど入れた。
それから持参用の白ワインを買いに行った。これはペットボトルに詰め替えて持っていく。
そして、水とつまみも弁当箱に詰めた。
朝・昼兼用の食事として、おにぎりを作って持っていくことにした。
そのため、米を洗っておいた。

その他、「地球一周の旅」次回はエルサレムなんだけれども
あっちこっちに写真がいっぱいあって整理がつかない。
今日は早く酒にして寝ようとおもうので、整理がつくまで附録はしばらく休載とする。

     これ、昨日の4時ごろに書いたのだが、UPするのを忘れていた。
     今、南戴河から帰ってきたところ。今日の分は明日UPする。

それから中国人学生による中国の学校紹介。
今回は高等学校であるが、
たまたま、高校紹介を課した学生は二人とも高校には行っておらず、
中等専門学校出身だったので、紹介は中等専門学校である。

@
私は 1997年から 2000年まで ○○中等専門学校で 勉強しました。
私の専攻は 財務の会計でした。
課目は 理科・中国語・英語・会計学などがあります。
学校の構内は とても広いですから 全部で約1000人いました。
担任の先生は 女性です。そして彼女はとても 優しい人です。
私は クラスで 学級委員長をしていました。
私は理科や情報処理が 好きなので 一生懸命 勉強しました。
友達と 一緒に バスケットゆサッカーをしました。
普段 友達と 一緒に お話をしています。
成績は 良好でした。しかし 英語が苦手です。
私の家から 学校まで 自転車で 45分 かかります。
それから朝食をたべます。
毎日 朝の8時から 夜の5時まで 勉強しました。
毎日 色々な知識を学びました。
先生は 知識を まじめに教えてくれました。
私は 先生から 多くの知識を学びました。
私が これから 健やかに生長するために、
先生から多くの 豊かな経験を得ました。
見識を広めながら自信の素質を高めました。
「どうも ありがとうございます。」と
私は心より 思っております。
そして「光陰矢の如し」 あっという間に
三年という時間が とても 早く 過ぎました。
この話は 良い思い出です。
私は 理想の大学に入ろうと 腹を決めました。
最後の二ケ月に 猛勉強しました。
ついに 理想の大学を入れました。
輝かしい三年の中等専門学校の生活を 終えました。
私は そのときの お世話になった 先生方や友達のことを
忘れる事はないでしょう。

A
私は1997年から 2000年にかけて
○○中等専門学校で 勉強して いました。
私の専攻は会計でした そのほかに 数学や
中国語や統計や英語など学びました。
各科目の中で 特に数学と英語が好きでした、
でも英語の成績が あまり 上手ではなかった、
そして 話せません。
会計は私にとって 退屈です。
会計の授業をした時は寝ようと思いました。
ですから 時々 私は先生に 罵られました、
そのため試験の成績もあまり上手ではなかった。
会計を学ぶのが良くなるために 毎朝6時に 勉強していましたが、
成績が 相変わらずあまり うまく できませんでした。
中等専門学校の授業が ほんとに とても少ないので、
私たちは毎日のんびり過ごします。サッカをしたり、
バスケット・ボールをしたりすることがあります。
大部分の時間が 友達と 喋べました。
友達に よって 話題が 違います、
大部分は勉強や生活や理想についてです。
学校中の規則制度は とても きびしいです。
吸煙と酒を飲むことは絶対禁止です、
吸煙と酒を飲むことを見付けれた 罰金を納められます。
そして毎日専門調査の先生があります、
彼らの仕事は誤ちを犯す学生を見付ます、
そして その日に 先生の心情が悪ければ、
誤ちを犯す学生が 増大ます。
私は彼らに会ったら すぐに 逃げます。
彼らは学校で 一番怖い人です。
私たちに 一番優しい人は学級担任教師です、
彼女は 50歳ほどけれども 若く見えます。
彼女は私たちに 常々 社会経験を教えてくれました、
そして 私たちに しっかり 勉強させます。
私たちは 彼女の話しか 信じませんでした、
彼女は私たちのお母さんのようです。
3年間の勉強が 早く 終わりました。
想い出は とても 懐かしいです、
先生の教え方は 永遠も 忘れないように したいと思います。
そのため これは 私にとって一番美しい 記憶です。





8月12日  (金)

「日中平和友好条約」が調印された日(1978)。
そして、ニュースでは台湾との間に「日台民間投資協定」が結ばれたとか。
どこの国とも仲良くやりたいものだね。

今日は一日中、パソコンと向かい合っていた。
おもに、昔の写真や授業記録などを焼き付けたCDの再生だが、
その間に「マンガ三国志」を見たり、「雀帝2005」で対戦したり、の横道も多い。

それから年金だけで、年間の家賃、年2回の出境費用を出して
生活費が残るのかの計算もしてみた。
ぎりぎりセーフかぎりぎりアウトというところだな。
贅沢しなければなんとかやっていけるんじゃあないか、とは思うが
ま、念には念を、と思ってこの夏、東京で大枚3000円を払って
左の宝くじを買っておいたが役に立たなかったな。

昨日のつづき、と思ったら昨日はやってなかったな。
中国人の学生が日本語で書いた小・中・高・大学の紹介である。
今日は中学校の部。
 @
  中国の中学は、9月から、新しい学年が始まります。
  学年は二学期があります。第一学期は9月から1月まで授業をします。
  第二学期は3月から7月まで授業をします。
  毎天午前、8時から、11時50分まで授業をします。
  午後、1時半から、5時半まで授業をします。
  2月は冬休みです。8月は夏休みです。
  5月の時、学生は春のピクニックを行きます。
  中国の中学には、国語・算数・理科・歴史・地理などの時間のほかに、
  家庭科の時間もあります。刺繍を習います。
  英語は学生の重要で課程があります。
  政治の時間もあります。政治の時間には、道徳や和平の大切さを学びます。
  中国の中学の学生は、毎天、忙しいです。
  たいへん学校の宿題があります。中国の学生はとても苦労しています。
  学校でいろいろなことを学びながら、子供たちは成長します。

 A
  中国では 9年義務の教学があります。中学は そのうちのひとつです。
  中学は3年間です。
  私の家から 学校まで 歩いて 10分かかります。
  そして、毎回家から 出かけるのが 遅いです。
  私の学級担任の先生は 女先生です。先生はおもしろい人です。
  私たちは彼女が好きです。私のクラスに47人がいます。
  みなさんは団結します。
  中学では 月曜日から 金曜日まで授業があります。
  毎日 8時から 5時まで、授業があります。
  そのうち 12時から 2時まで 自由時間です。
  少しの人は家へ帰て 昼食を食べます。
  その他の人は 学校の食堂で食べます。
  授業が終わると みなさん 笑ったり 話したり します。
  そして、教室は にぎやかです。
  中国の中学には 数学・国語・物理・化学・
  政治・英語・生物などの時間のほかに 家庭科の時間もあります。
  例えば 裁縫をしたり物を作ったりします。
  毎年の2回の休暇期間は冬休みと夏休みです。
  冬休みは夏休みより短いです。
  私は夏休みが好きですので この休みに たくさんの仕事をします。
  例えば 友達に会って、商店を見て回って、旅行して、勉強します。
  でも、天気はあついです。
  これは 私の中学です。

 B
  中国の中学生はいろいろな課程を習います。
  基礎科目の国語、算数、えいご、化学、政治、物理のに、
  コンピュータや生物などおもしろいな課程もあります。
  中学生活は楽しいですよ。学校行事は多彩です。
  春と秋は運動会があります。ときどきバスケットボールの試合、
  サッカーの試合などがあります。
  一番特色のことは年に団体のダンスの試合です。
  よく踊るクラスがあります。
  あまりよくない踊るクラスがあります。
  みんなは楽しみです。愉快でも、試験の前には大変です。
  ほかの学生もみんなそうです。
  夜十二時まで勉強を続けたりする人も少なくありません。

下は学校紹介の作文を書いた学生たちです。
記録CDを見ていたら出てきました。なつかしい。




・・・・・・ ぽろぽろと思い出すままに記す老いの繰り言のようなものである。同じことを繰り返していることもあるかも知れないが、お許しを。 ・・・・・・

私が学生のころ、メーデーに参加して
「立て!万国の労働者、轟き渡るメーデーの・・・・」
という歌を聞いてびっくりしたことがある。
なんと「ばんだの桜か、襟の色・・・・散兵線の花と散れ」
という軍歌と同じ曲ではないか・・・・
ええんかいな!と思ったものだった。






8月11日  (木)

新聞広告を見ていると
豪華旅遊車で南戴河一日58元
という広告が目についた。
なにはともあれ58元は安いではないか。
さっそく旅行社に連絡。
なんと、旅行社は私の家の団地内。
さっそく問い合わせに出向いた。
5時半出発、10時着、3時現地発という日程である。
食事はつかないが、脱衣場、シャワー、ロッカー完備という。
あんまり、泳ぎはしないだろうけれど、とにかく一日パソコンから離れて
ぼんやり過ごしてくるのもよかろうと思って申し込んできた。

夕方からはうら若き女性4人来宅。
ひとりは上海からのお出まだ。
それぞれにワインを持参してくれている。
グラタン、トンカツ、ポテトフライ、
キムチ鍋などをつくって食べ、
あいまにはエア・ホッケーの
試合などもあって
にぎやかなひとときを過ごす。




(29)   2010年 6月26日

ポートサイド
  &
みなとのスーク(市場)

 6月26日、

 スエズ運河は、
 ほぼ一日がかりの航行である。
 今日は昼食も運河を見ながら
 食べようということで幕の内弁当である。

 左岸=ナイル側は緑豊かなのに対して
 シナイ半島側は砂漠が続く。
 初めの内こそ興奮して見ていたが、
 単調な景色の連続である。
 すぐに飽きてしまった。

 クルーの人たちも裸で
 デッキで休憩している。
 こちらの眺めも結構良い。

   2段目右端の写真である。
   クリックして下まで下げてみてください。
  上左のポスターは旅行中ほぼ毎日プリントして私の部屋の前に掲示したものである。GPSとプリンターと早起きが威力を発揮している。
  下の小さな写真はその時々のスナップである。説明や感想は左欄につけれたらと思っている。長旅だが、どうかゆっくりとお楽しみください。









 スエズとパナマの両運河を通るというのは
 私にとって今回の旅の大きな目玉であった。
 でも、実際に行くと時間待ちと単調な航行の連続だ



エジプトではほとんどの人が
片道4時間のバスに乗ってピラミッドを見に行った。
私は以前行ったことがあるので自由行動。
フェリーに乗って向こう岸に行ったり、
スークをうろついたりして過ごした。

昼食は船に戻って食べたが、一人ひとりが着席してから握ってくれるという。
非常に豪華な寿司である。トロ、ウニ、イクラ、タイ・・・
でもこれがピラミッドに行った人だちから大変恨みとねたみを買うこととなった。
以後船で留守してもこんなに豪華な食でなくなってしまった。
 





   先週以前のブログは下の「過去のブログ」からご覧ください。