![]() 小学校の頃、一日だけ学習塾に通った(一日だけだと通ったとは言わないのかな)ことがある。 その頃の塾は畳の間に正座をして勉強をするのだ。 塾が終わったとき、立ち上がろうとしてバタッ!と倒れた本当にバタッ!である。 翌日から行くのはやめた。 ソロバン塾は椅子だったせいかしばらくは続いた。 今でもニイチテンサクノゴ ニッチンノインジュとソロバンの九九を覚えている。 |
![]() 大学生の時だった。教会の先輩の結婚式で祝電の披露をする係りをした。 日頃通っている教会の礼拝堂で、そんなに格式ばった式ではなかったんだけれども、 学生の私はひどく緊張したんだろうな。 「新しいスカートを祝し・・・」と言ってしまって笑われたのに、 私はその間違いに全く気がついていなかった。 |
![]() 戦後、疎開で丹波の田舎にいた時であるから小学校に入る前だ。 妹と田舎道をぶらぶらしている内に竹藪に迷い込んでしまった。 丁度竹の子が芽を出している頃で妹と一緒に竹の子を引っこ抜いた、 というより二人の体全体をかけて根っこから折って意気揚々と家に持ち帰った。 ところが竹藪にも所有者がいて竹の子を盗んで帰ったということになってしまった。 祖父母は謝りに行くのに大変だったようである。また、母はその竹の子の料理を命ぜられてこれまた大変だったようである。 |
![]() 震災で学んだことは本当に多い。そのひとつ。本気で願えば実現するということ。 100人以上の人が体育館のフロアーで寝起きする生活がかなり続いた。 プライバシーはゼロに等しい。寝小便のクセのある子は衆人環視のなかで寝小便をしなければならぬ。 何とか仕切りだけでもつけたいものだと考えていたら、段ボール板を何百枚かの寄贈を申し出てくれる人がいた。 体育館の中に中央通りと横町が出来、おもちゃのような町になった。 三食が配給食での生活が続いている。体育館の横に台所を作って自分で食事を作ることを始めてもらいたいと思った。 水道用のゴムホース、プロパンガス、ナベ、包丁などみんな集まってきた。不思議なくらいだった。 |
![]() 尼崎ではじめて勤めた中学校で「機械工学クラブ」というたいそうな名前のクラブを作った。 何をしたかというと、オンボロの中古車を2台買ってきて、 最初は夕方に校門を閉ざしてグランドを「私有地」と称してその車を乗り回した。 きっと中学生にも乗せたと思う。 その後、何日も何週間もかかってタガネでその車を解体し、エンジンやトランスミッションを磨きだして展示する。 また、三宮のジャンジャン市場でリレーを何十個も買ってきて 畳一枚くらいのボードに貼り付けて簡単な「電子計算機」を制作。 一応、一桁の計算はやってくれる機会が出来た。 でも、中学の部活で中古車を買ってきて・・・なんて出来た時代だったんだな。 |
![]() 私は食べものの好き嫌いはほとんどないし、食べられないというものは全くない。 が、どちらかと言えば食べたくないものはある。サツマイモとカボチャである。 カボチャは何故かは定かではないが、サツマイモには理由がある。 戦後、腹が減ると他所の畑のサツマイモを掘って生のまま食べて腹をふくらましていた。 見つかって追っかけられたことも何度かある。 きっとその時に「こんなものを食べる不幸」という気持ちがすり込まれてしまったのではないかな。 |
![]() 淡路島に勤めていたころ、野宿しながら歩いて島を一周したことがある。 島全体で交通信号が洲本にひとつだけ、という時代である。 生徒が「先生、先生、あれ交通信号やで」と自慢して見せたころである。 南端の沼島のあたりはほとんど道もなく、歩くのもビビるぐらいの断崖だった。 |
![]() 神戸の空襲で家を焼かれて、いったんは丹波の田舎に疎開したのだが、 すぐに神戸に戻ってきて、焼け跡に掘っ立て小屋(当時の状況からすればかなり立派な家だったが)を建てて住み始めた。 すぐに取りかかった仕事は畑を作ることである。 かなり向こうに小屋を作った人が向こうから耕してくる。 何日かかかってそれがぶつかったところが所有の境界である。 こんな原始的な土地所有の形態が数十年前にはあったのである。 |
![]() 初めての海外旅行は1972年正月、もう40年ほどまえになるなあ。 当時の豪華客船コーラル・プリンセス号でのグアム・サイパン往復紀行だった。 71年12月になって「グアムに行かないか」という電話がかかってきた。 「そんな金もヒマもないよ」って言うと「タダだよ、ご招待」って言う。即座に「行く、行く」と答えた。 金のないのは事実だがヒマがないのはウソだった。兵庫県(全国だったかも)カウンセリング研究会の招待だった。 船内のワークショップの他にダンスパーティーとかバンザイ岬とか忘れられない思い出だ。 |
![]() 中学校のころ、 登山家を夢見ていたことがあったらしい。 自転車の荷物ヒモのようなものをザイルに見立てて肩にかついで六甲山を歩き回っていた。 確かに夢多き年頃であった。 テレビはあまり見なかったのでスーパーマンやアトムのように空を飛ぶ夢は持たなかったのが幸せである。 |