7月 4日(土)

部屋は少しづつ片付いてきている。
しかし、それは外見上だけで、一応きれいに積み上げたプリント類などを
もう一度読み直して整理する膨大な仕事は手つかずである。

とにかく暑い。
このごろあまり言わなくなったが新型インフルエンザ対策も兼ねて
なるべく外出はしないようにしている。(・・・対策というのはウソですが)
スポーツクラブには1日おきぐらいに出かけているが
このごろはジムで運動する元気がない。
暑いもので、行くといきなりプールに直行である。


あ、そうそう、俳句の感想文の続きでした。



すずめの子 そこのけそこのけ お馬がとおる



田舎の道を馬が通っていった。
その後ろに雀の子の毛が空へゆっくりと飛んでいく。
かわいそうな雀の子よ、
あなたがまだそんなに若くて弱くて、
空を飛んだこともなかったのに死んでしまった。
せめて毛だけで空へ飛んでゆこう。



一羽のすずめの子
ひとりで道の中で遊んでいた。
私も一緒に遊びたかったけど、
その子 遊びに夢中になって、
やっぱり邪魔しないほうがいいと思ってそばで見ていた。
突然一匹の馬があらわれた。
私は「はやくのいて 馬が通る」と叫んだ。
すずめの子の影がみえなかった。
死んだのかなと思いながらないた。
すずめの子は枝の上にすわって歌を歌っていた。
よかったな。



次回は、短歌の鑑賞文を紹介します。







7月 3日(金)


夏休みに入っての最初の仕事として
部屋の大掃除をはじめた。
勿論、普段が右写真のような状態というわけではない。
書架や書架の後ろに詰め込んでいたものを
引っ張り出してきて再整理、2〜3日はかかりそう。


今日は、日語科3年生の学生の
「俳句」の鑑賞文をご紹介
これも試験形式で、
いきなり俳句を提示して書かせたものである。



われときて あそべや親の ないすずめ



秋の夕暮れ  一人もいない道を歩いている。
遠くから見ると、ある葉のない木のしたに、何かが震えている。
よく見ると小さな雀だと分かる。
急に親しい感じができた。
なんだか一人 っぼちの 私と同じ
親も身近にいないし、友達も離れている。
そうだ、この世は、私と同じ感じを持っている雀もいるんだ。
さあ、かわいそうな雀 私と仲間にしよう。
そうすると二人とも楽しくなるよ。
二人とも寂しくなくなるよ。
さすか秋の夕暮。



親のない可愛いそうな雀よ。
あなたたち、寂しいだろう。
親のこと、懐かしいだろう。
ほかの雀はみんな親を持っているのに、
どうしてあなたたちは親がないのやら、などと思っているのだろう。
心配しないで、寂しく感じないで、
私も親のない寂しく生きている人間なのよ。
あなたたちと同じように世話をしてくれる人のない孤独な身なのよ。
もし、私のことを怖く感じないのなら、
ぜひ私の所へ来てくださいね。
私はあなたたちの友になるから、

この俳句を読んで以上のような感情が出られる



日本語を学び始めて3年、ある俳句をパッとみて、
これだけかければまあまあじゃあないか、と思っているのですが・・・・

次回も、もう一つの俳句の鑑賞文を。






7月 2日(木)


来期の授業担当が決まった。
日語科3年生の写作(作文) 2クラス
各週2時間、木曜日1回の出勤である。
全く希望の通り。よかった。

右の奇妙な写真は、学生が送ってきてくれたもの。
PPTのよさでこういった写真もメールで募集して
その都度学生に紹介している。


昨日の続き、日語科3年生の「俳句」である。


さびしさは ガラスのように 透明だ
感じがわかりますねぇ。でも もう一工夫あってもいいかな。
  
最近は 母会いたくて たまらない
「母にあいたくて」と字余りにした方が感じが出る。
  
わが恋は はなればならぬ 涙が出る
「離れねばならぬ」とこれも字余り 「涙出る」と「が」を省く

  
あの人と どこへいきたい 面白さ
二句目を「どこか行きたい」として、三句目を変えてみる
  
夏の夜 恋人同士 デートする
「恋人同士」と「デート」は重複だな。
  
彼の顔 春の花似で 暖かい
「春の花似で」 内容はいいのだが語調が悪い。違う言い方を考えよう。
  
一匹の犬 街でさすらう 家がなく
「一匹の犬」大幅な字余りだけど悪くないね。「街をさすらう」
ここまでくれば三句も もう少し工夫がほしいね。
  
家もなし 両親もなし その子供
感じがよく表現されています。このままでもいいと思いますが
「その子供」をもう少し内容を持たしてもいいかもしれないね。


明日は、この子たちの俳句の鑑賞文にしようかな。








7月 1日(水)
  
7月になった。秋である。というのは嘘である。
しかし、今日の午後出勤すれば今期の仕事はすべて終了のハズである。
来期の授業担当も今日決まるハズだ。
私は日語科3年生の「写作(作文)」2クラスだけ、を希望している。
4年生の「高級日語」1クラスも・・・と言われているが
4年生2クラス中の1クラス担当はイヤだと拒否している。
その拒否が通じるかどうか、が今日決まるハズということだ。


今日は日語科3年生の作った「俳句」をいくつか紹介しよう。
予告無く授業中に突然作ったものなので出来はあまりよくない。
(宿題にしてもあまり代わりはないと思うが・・・・)
これは、その翌週にパワーポイントを用いて学生に紹介したものなので
本来は「作句」だけが出て、少し、感想など話し合った後に「短評」が出ることになっているが
ここでは一度に紹介してしまうことになる。

  
食事あと トマトに砂糖 おいしいよ

非常に素直に作れています。「食事あと」は「食事して」の方が語調がいいかな
  
まだねむい 先生の話 聞こえない

わかる、わかる。  「先生の話 遠くなり」とすると時間の動きが出る
  
金魚さん 湖の底 遊んでる

字余りになるが「湖の底で」の方が  「花瓶の底で」の方が身近な感じ
  
池の中 おたまじゃくしよ 母さがす

「母さがす おたまじゃくしよ 池の中」とするとずいぶん俳句らしくなる
  
朝早く 寮から出でて 本を読む

「本を読み」と体言切れにした方が余韻が残る
  
貧乏は 貧乏なりの 生き方は

「貧乏は 貧乏なりの」が非常によかった。「生き方は」をもう少し工夫すれば
  
空暗く 遠くからくる 雨の音

いいですねぇ。 夏の夕立ですね。景色が目に浮かびます。
  
かみなりと いなづま走る 雨が降る

稲妻走る 雨が降る と動詞を続けたのは成功 「かみなりと」は工夫が必要
  
まいあさの スズメの鳴き声 聞きたいね

三句がちょっと。「聞いて起き」とか「くせになり」とか、将来への希望でない方が
  
夏がきて 蝉が歌つつ 子供寝て

「蝉が歌って」と「て て て」のリズムにしてもよかったかな
  
夏の花 少女のように 美しいな

三句の「な」はいらない。「美しい」も平凡。別の言葉を考えてみよう。
  
春の雨 油のように 貴重だな

「春の雨」と「油」というつながりがちょっと無理かな。二句を変えてみよう
  


ちょっと長くなったかな。
続きはまた明日ということで。






6月30日(火)
  
中国は「科挙」の伝統が脈々と生きながらえている「試験大国」だと思う。
門閥ではくて実力で人材を登用する試験制度は、当初、理念としては有効だったのだろう。
でもなにしろ人数の多い国だから、試験はどうしても「落とすための試験」とならざるをえず、
煩雑、瑣末なものとなり、有閑な金持ちの子弟しか、受験勉強なんかできっこないものとなった。
大金持ちの子供でも、試験に通らなければ官吏にはなれず、金持ちでも無能なものは排除するという
「落とすための試験」としての効能は維持できたと言えるかもしれない。

遣隋使、遣唐使を派遣し、何から何まで中国文化を取り入れた日本も、
「科挙」の制度と「宦官」の制度は採用しなかったのは、卓見だったと言えるかも知れない。

ところで、今の大学の試験である。

前期、私は学生に
試験には鉛筆と消しゴムを使って、間違ったところはきれいに消して書き直すようにと指示をしていた。
しかし、試験当日、監督の先生から、それは認められない、すべてボールペンで書くようにと指示されて
鉛筆で書いた者は誰もいなかった。

もう一つ、解答の一つを原稿用紙に書かせて、題と氏名、段落等の書き方も採点対象とするとした。
これも試験当日、監督の先生から、一枚目の所定の場所以外に自分の名前を書いては無効であるとの指示で
原稿用紙の使い方の採点に不都合をきたした。

これは監督の先生の判断ではなく、大学の、いや、きっと国の決まりなのだ。
なぜなのだろう?
鉛筆で書くと後で書き直しがきくからだという。ボールペンで書いても思いっきり書き直しがされているんだが・・・・
採点者に受験者の名前がわからないようにという。作文の試験だから出題者の私以外に採点は不能なんだが・・・・

で、今回は問題用紙に

   注意  解答は「鉛筆と消しゴム」を用いて、間違ったところは
       消しゴムで消して書き直し、「清書」の形で提出してください。
       次のような、訂正、書き加え、削除のある答案は採点対象
       としませんので注意してください。
      

と明記した。

こけが私のいない時に、職員会議で大問題となったそうである。
結局は「外国人の先生の特例」ということで容認となったということだった。

なぜ鉛筆で書いたらダメなのかという論議をしてくれたらよかったんだけれどもね。






6月29日(月)
  
大学日語科の学生の感想文。
そんなに、もったいぶって昨日からの予告付きで紹介するほどのものではないけれど
たった二人だけの授業だったので、二人の感想も載せておこうと思っただけ。
  


大学の授業を通して私は日本語の発音と会話に新しい認識が生まれた。
もとは、ただ テストのために日本語を勉強しますから、
発音と会話 そして聴解に対してちゅういしませんでした。
ところが久下先生と一緒に勉強した後、その部分に対して再び注意しました。
第1回の授業、私は先生の話を分かりました。だからとてもはずかしいでした。
8年間日本語を勉強しながら日本人と会話もできないのがとてもはずかしいでした。
今、私は発音と会話に対してとても注意します。
つねにテレビを見て、テレビ通りに発音します。
そして会話を話す時もできるだけ自分の感情を入れます。
今、本当の日本語を学ぶ感じがします。
そして、久下先生を通して、日本に対して新しい認識がありました。
以前はただ日本語だけ習いますが、今は日本の文化と常識に対してちょっとマスターしました。
以後、日本人と自由に会話できるのために、もっと努力することにした。



今学期の大学日本語の授業は私に対して、特別な授業でした。
8年間も日本語を勉強しましたが、日本の先生が教えてくれるのは初めてでした。
また、私と李さんの二人だけの授業ですから、ほかの授業と同じなくて、
特にこの授業にいっしょうけんめいしようと思いました。
初めて授業の時、日本人の先生との対話が、慣れなかったので
ちょっと難しい感覚がありました。
先生が何を話しても、その意味が分からなかったので
ただ「はい」「そうです」と言いましたのです。
何度の授業後、先生との対話がますます慣れるようになりました。
その時から日本人との対話も、日本語の勉強の易しいものだという感じがあり始めました。
日本人の久下先生は中国の先生とちょっと同じないものがありました。
毎度の授業の前にきっと充分な準備をして授業します。
中国ではこんな先生が少ないです。
これから日本人と中国人とも区別も見られます。
久下先生から日本人のまじめな面を見ることができます。
ただ一学期の授業でしたが、先生のおかげでおもしろく日本語を勉強しましたのです。








6月28日(日)
  

先週、金曜日に「大学日語」の授業が終わった。
今回は 5〜60人は入るだだっ広い教室に
学生二人だけのテストである。

「大学日語」というのは
中・高校で日本語を勉強してきた学生が
第一外国語として選択する授業である。
従って、時には10人ほどであったり
4人、6人とサイズはまちまちであるが
今回のように2人というのは珍しい。
ほとんどが北方の朝鮮族の学生である。

前期は4人だったが、あまり熱心ではなく
4人全部がそろったのは1回しかなかった。
私は時間講師、フリーな立場なので
もう、大学日語の授業はしない、と宣言していた。
今度は真面目だからというので、しかたなく担当したのだが、ホント真面目だった。
欠席は一度もない。用事のあるときは事前に調整して、二人がそろうときに調整する。
もちろん二人だけだから、授業中内職をしたりすることもあり得ない。

私は楽しくできたが、学生たちはどうだったのだろう。
学生の感想文は次回に掲載する。


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