![]() 「日の丸弁当」というのがあった。 アルミの弁当箱に白いご飯が入っていて真ん中に大きな梅干しが一個というものである。 言葉は有名だったけれど私が実際に見たのは一度だけだった。 小学校のころ転校してきた子の一回目の弁当がまさしくそれだった。 ウワーと声を上げて見たのを覚えている。傷ついただろうな。家に帰ってカアチャン大変だっただろうな。 でも、放課後はそんなこと全く忘れて大声を上げて遊んでいた。 子どもってもともとはそんなもんなんだけどなあ。 |
![]() まじめなもので、タバコを吸い始めたのは20歳を過ぎてからである。 もちろん高校生のころにも面白半分で吸ったことはあるが、そういうチャンスに恐る恐る1本だけという程度だった。 禁煙は2度やった。一回目は何気なくである。 でも割合簡単に成功して1年ほどは続いたとおもう。 その揺り戻しか、その後はタバコか主食といってもいいくらい吸った。 ロングピースで一日60本以上だった。 それを辞めようと思ったのは、実はカウンセラーになろうと決心したからである。 狭い部屋でクライエントと1時間以上話しをするのにタバコを吸いたくてイライラしては致命傷だろうと思った。 この時はずいぶん苦労した。カウンセラーにはなれなかったけれど禁煙は25年後の今も続いている。 |
![]() 「マクリ」という飲み薬を知っているだろうか。 小学校低学年のころ学校で時々飲まされたものだ。苦くてイヤだった。 でも、これを飲んで体長15pもあろうかという「回虫」を口からはき出したことがある。 また、寄生虫では「シラミ」「ノミ」も今の「蚊」ぐらいの感じでいた。 「シラミ」はペチャとつぶし、「ノミ」はプチッとつぶしたものだ。 今では「シラミ」は名前もほとんど消えた。 「ノミ」は名前の方は健在だが実物にお目にかかることはない。 ひょっとしたら「コウノトリ」同様絶滅危惧品種になっているかも。 |
シンガポールの
![]() 文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を 綴っていきたいと思っている。 1994.8.6. 〜8.19. |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() カシュガル。働いている人々。いいなあ。何か別の日常世界が広がっている。 最後の一枚は北京のレストランです。この娘さんのお父さんと文通で友達になり、後、雲南など二人で旅行もした。 |
![]() 運転免許を取る時も大変だった。 教官の指導に腹を立てて教習所のなかを暴走したことがある。 教官のブレーキですぐ停車させられ「何しとんじゃ!」とどなられた。 とにかく教習所の教官の態度はデカかった。 それに腹を立てのことだから「じゃかましゃい!あの壁にぶつけたろ思っとんじゃ!」とどなりかえしたら、 とたん教官の態度がおとなしくなった。 「まあまあ、落ち着いて話そう」 「お前と話すために金払っとんじゃない、走らせろ」と激論。 結局、その回の練習は無料となった。 |
![]() 免許を取って初めて四輪に乗ったのは赤色の2気筒パブリカだった。 このころは自分でエンジンをバラして掃除をしたりした時代だ。 このパブリカ、前を走っている大型ダンプの下に潜り込んだこともあるし、 工事中に気がつかずに走っていて突然道路がなくなり、20mほど空中を滑空したことがある。 また国道で180度横転したこともある。 気がつけばハンドルを握ったままちゃんと座席に頭を下にして座っていた。 ヘンな景色だと思ったのが第一印象だ。 一人でよっこらしょとひっくり返して、国道を走って帰った。 |
![]() ホンダが初めてスーパーカブというバイクを売り出した時、宣伝に各学校に一台ずつ寄付してくれたことがあった。 その時、私は淡路島の柳学園に勤めていたが、中・高併設だったので2台配給された。 どういうわけか1台は私専用みたいになって、洲本の町を乗り回していた。 勿論、免許があったわけではない。淡路島に信号が一つしかないという時代だ。 危険などとはつゆ思わず自転車と同じ感覚で乗り回していた。 でも結局授業中の校舎の壁に激突して私は怪我は無かったがバイクは大きくこわれて、その遊びはオシマイ。 |