![]() 公立学校に勤めだしたころには、まだ日直・宿直というのがあった。 日直は朝務会の司会をするくらいで別に何ということはないが、宿直は学校に泊まり込まなければならない。 男性だけなんだが、家庭を持っている人はしたくはないので若い者が代わりをすることになる。 代わってもらったお礼にお酒が一本差し入れられたりする。 みんなに早く帰られると寂しいので日が暮れた後の職員室ではにぎやかに宴会が開かれる。 宿直者が飲み過ぎて寝坊をし、朝務会に遅刻をするというようなこともあった。 |
![]() 文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を 綴っていきたいと思っている。 1994.8.6. 〜8.19. |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「交河古城」だったと思う。崩れかけの日干しレンガの建物、人影はほとんどない中をロバの馬車に乗って巡った。 |
![]() 小学校のころ、嵐寛寿郎(アラカン)と美空ひばり(杉作少年)の「鞍馬天狗」という映画をよく見に行った。 ♪鞍馬天狗のおじさんは正しいことの好きな人・・・と妹と一緒に歌いながら、 上の兄貴につれられて電車道にある映画館に歩いて行く。 途中で「ポン煎餅」を買って貰うのも毎回のきまりである。 なんか、いつも寒かったような気がする。 |
![]() 中学校の1・2年のころ体操部にはいっていた。最初の難関は鉄棒の蹴上がりである。 これは同級生がモタモタしている間にマスターした。 けれどもマット運動がどうしてもうまくできない。 同級生が宙返りやバック宙などの練習に入っても私は地上回転ができなかった。 跳び箱も中抜きというのができなくて、体操部は早々に脱落してしまった。 |
![]() はじめて教師をしたのは淡路島の中学校である。 島でただひとつの私立進学中学校で全島から成績優秀で経済力のある家庭の子どもが通ってきていた。 夏休み、神戸に帰省して8月末下宿に帰ると廊下の天井に届くまで (ちょっと大袈裟だけどそんな感じ)中元の品物が積まれていた。 その量には驚いたけれど、へぇこんなものかとお中元をもらうことにそんなに抵抗感は持っていなかったようだ。 ただ部屋には生徒がよく遊びに来たり、帰宅のバス待ちに来ていたりするので、 その子たちの目に触れるのはイヤだった。 |
![]() 神戸の大空襲で家を焼き出された私たち一家は寝るところもなく、焼け残っていた小学校に行った。 しかしももう教室も廊下も人出一杯で寝るところはない。 仕方なしに階段で斜めになって寝た。 そのとき階段を行き来する人に下駄で顔を蹴られて前歯を折った。 歯医者など開業しているはずもない。 前歯をぶらぶらさせながら、屋根まで人が乗るような満員列車に乗って田舎に疎開した。 |
![]() 中学生のころである。 私の学校は制服のズボンにちゃんと線が入っていなければならなかった。 アイロンなんて多分なかったと思う。 毎晩 寝るときに畳と敷き布団の間にズボンを丁寧に置く。「寝押し」である。 寝相が悪いと線がゆがんだり、二本になったりする。 ズボンの生地が悪いと畳の模様がそのままズボンについていたりする。 ベッドではできない技だ。ベッドのあるような家はアイロンもあったんだろうな。 |
![]() 文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を 綴っていきたいと思っている。 1993.12.26. 〜94.1.3. |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() イリアンジャヤに入る前日はバリ島に立ち寄った。 「バリ」というのはあこがれの島だったので思い切りたくさん写真を撮したが今あるのはこの2枚だけである。 ニューギニア島の海岸沿いの人々。海上に住んでいる人も多い。 |
![]() 小学校一年生ごろ。まだ神戸市内は焼け跡だらけで、多くは畑になっていた。 水田は少なかったが麦畑はあちこちにあった。誰かと誰かが麦畑、というほどのものではなかったが。 道を歩きながらひょいとあのいがいがの麦の穂をとり、両の手の平で揉んで脱穀する。 それを口に含んでべとべとにならないように注意しながらかみ続けていると粘りが出て チューインガムのようになる。手製のおやつであった。 |