11月30日  (火)


DVD「遠くの空に消えた」を見た。


行定勲監督が夢見ることを忘れてしまった大人たちへ贈る感動作

「GO」で数々の映画賞を受賞し、
その後「世界の中心で、愛をさけぶ」をはじめ
数々の大ヒット作を手掛ける行定勲監督。
その行定監督が7年間、温め続けたオリシナルストーリー。
神木隆之介、大後寿々花、ささの友間の3人に
日本を代表する豪華キャストが集結。
光と影か織り成す美しい映像世界。
夢見ることを忘れてしまった大人へ贈る感動作!

という映画である。

明日がメール日本語塾の第七回の教材発送日ということで、追い込みの作業が忙しい中
疲れ休めの細切れではあるが、一日で見てしまった。

メール日本語塾の方は今回も一人が脱落。毎回脱落者が出るのはちょっと辛い気もするが仕方がない。
ただ、今回は2人の新入会員があった。
まあ、人生最後のご奉公だろうから、頑張ってやろう。

歯がね、いよいよダメになってきている。
上の前歯、ぶらぶらして、ただぶらさがっているだけ。
もやしの豆なんかでも噛むと痛い。
時々はまともに噛んでしまって飛び上がるほどの激痛が走る。
口の中で、いつもガチャガチャと音がしている。
抜いてしまえばいいと思うけど、何分50年以上わしの為に頑張ってくれた歯だ。
役に立たなくなったからといって、無碍に捨てるのも人情に反するし
これが無くなれば焼き鳥なんかどないして喰えばいいんだろうと、ちょっと心配もある。



「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
イリアンジャヤ B
1993.12.26.
  〜94.1.3.


@ 高地の夜明けは幻想的と言ってもいいくらいに美しい。
A こんな立派な家もある。多分観光客向けなんじゃあないかな。
B これは一般の家である。私たちはこういう家で、寝袋で何日かを過ごした。
C 市場で店番をしている女性。市場には観光客用と住民向けの商品がならんでいた。
D 木の蔓でつくった吊り橋である。渡るにはかなり勇気がいる。





   11月29日  (月)


日曜日、3週間ぶりかな、
日本語コーナーに行った。
以前は習慣になっていたので
生活習慣のプログラムに組み込まれていたが
最近は、何気なく予定を入れてしまったり
時間が過ぎてから、あっ、しまった、今日はコーナーの日だった
と言うようなことが多い。


月曜日、これも久しぶりに盲人按摩に行った。
2時間半 58元。
ここ数日はむやみに肩、腰が痛かった。
今日ので治ったかどうかは分からないが
ずいぶん効いたのではなかろうか。
とにかく痛かった。





  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
定年退職後、一ヶ月は帆船「あこがれ」に乗り、そのあとすぐに三ヶ月地球一周の旅で客船オリビア号、
一ヶ月語学短期留学で雲南大学の寮、一ヶ月同じく語学短期留学で北京語言文化大学の寮、
半月西尾研修所と外泊が続き、
2001年天津商学院(現天津商業大学)に赴任、五年間そこの寮に住んだ。五年が最長期限ということで商業大を退職、
修曼職業学校に就職、学校の近くの民間の家をかりて住んだ。ここで妻と離婚をすることになってしまった。
修曼は一年で辞め、天津海光寺近くに家を借りて住むことになった。
ここでは新天空日語、連邦教育などで臨時講師を勤めたが、結局再び商業大学に時間講師として戻った。
海光寺の家は2年間住んだが家を売るので立ち退いて欲しいと家主に言われ、
現在の家に引っ越して、今、二年目となっている。






   11月27日  (土)



「四日間の奇跡」朝倉卓弥 読了

次のような小説である。

第1回「このミステリーがすごい」大賞・大賞金賞受賞作として、
「描写力抜群、正統派の魅力」
「新人離れしたうまさが光る」
「張り巡らされた伏線がラストで感動へと結実する」
「ここ十年の新人賞ベスト1」
と絶賛された感涙のベストセラーを
待望の文庫化。

脳に障害を負った少女とピアニストの道を閉ざされた青年が
山奥の診療所で遭遇する不思議な出来事を、
最高の筆致で描く癒しと再生のファンタジー。

という作品である。
文庫500ページを二日で読んだんだから、おもしろいこいは面白かった。


今日の夕食はちょっと豪華に
刺身と魚の煮物、冷や奴とつけもの。
そして日本酒とDVDである。

土曜日なので太極拳に行った。
次期の講座のパンフレットが配られた。
12月3日から登録が始まるということだ。

今度は「太極拳42式」「健身気功」「篆刻」「中医按摩」などをやってみようかと思っている。




「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
イリアンジャヤ A
1993.12.26.
  〜94.1.3.

男性が腰につけているのはコテカと言って瓢箪を加工したものである。
これも細かったり、太かったり、先を曲げたり結構ファッション性があるのだ。
Fはそのための瓢箪畑である。
Bの写真は獣骨の針と樹木の繊維で腕輪を編んでいる。これはデモンストレーションではない。
CDの写真のおばあさんの指は親指以外ない。
昔は夫とか子どもとかが死ぬと一本ずつ指を石斧で切り落としたのだそうだ。
一本目は気合いでやったかも知れないが、2度目、3度目の石斧を振り下ろす勇気はどこから出るのだろう。
Eの写真を撮った時にはお金を要求された。ここでも若い女の子は金がかかるんだなあ。
そう言やあ、女の子の顔は商売だから仕方がないというような顔をしている。






   11月26日  (金)



先々週 13日の太極拳の授業の時、
左のようなポスターをみつけた。
中国茶芸や太極拳、ヨガなどの
発表会が、今日26日にあるというので
出かけた。

さすが、老人の集まりだ。
1時間前に行ったんだけど
もうかなりの人が入っている。
30分前にはもう満員だった。



出演者も老年人大学の発表会だから
全員が50歳以上。


みんな頑張ってやっているんだけれど太極拳、ヨガを連続して見ているとどうしても眠たくなってくる。
1時間半ほど見て退屈して退出した。



帰りに和食の食材屋によって、日本酒、鰹節、竹輪を買ってきた。





  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
結婚して新居は神戸甲南台に新築した。
開発直後の土地を買って、その土地を担保に金を借りて建てたちっちゃなプレハブ住宅である。
ここには妹も一緒に三人で住んだ。妹は後に宝塚にアパートを借りて出て行った。
ここで長男が生まれ、長女がうまれ、長男が結婚し、長女が結婚した。
何年かして周りに立派な家が建ち始めたので、
その対抗上、妻の親戚の設計士に設計をしてもらってかなり立派な家に建て替えた。
その間、数ヶ月小さな家を借り家具の倉庫代わりにして住んだ。
もっとも私はその時、兵庫教育大学大学院に内地留学中だったので、2年間大学の寮に住んでいた。
ここで、定年退職を迎えた。






   11月25日  (木)



シチューとか「おでん」、カレーもそうだが
一度作ると何日間か食べ続けなければならない。
どれも好きなものだからいいけれども
このシチューはもう三日目である。
サラダは昨夜の残り。


きのう、24日はプールに行った。何となく、久しぶりである。
ついでに鞍山西道に行き、プリンターインクの「注墨」。
「注墨」とは使い古したインクカートリッジにインクを詰めてもらって再利用することである。
それと、パソコン用のコード3本、
DVD 2タイトル(「ナイトホスピタル」「高倉健作品集」)を買った。

DVD「ラブレター」看了。なにしろ60話だ。1ヶ月ぐらいかかったかな。



「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
イリアンジャヤ @
1993.12.26.
  〜94.1.3.



イリアンジャヤには探検家の藤木高嶺先生に連れて行ってもらった。
本多勝一「ニューギニア高地人」の写真を担当した人である。
彼らが初めてこの地に探検に入った1960年代には
この地域は土器すら知らぬ未開の地域であった。

それから、30年、かなり文明は入ってはいるのだが、
そこに住んでいる大部分の人たちは石器の時代を生きてきた人々だった。
@Aなどは歓迎の観光用デモンストレーションにちがいないが
以降の食事をつくる写真などは「まだ生きている過去」の営みである。





   11月23日  (火)


なんと気の早い話と言いながら
またまた、クリスマスの話しである。
今年も天津日本人会のクリスマスパーティーが出来ることになった。
で、今日はそのチケットをもらいに行ってきた。


「今年も出来ることになった」というのは、
先日の反日活動の影響で中止も検討されていたということである。
私のような個人会員はそんなモンびくびくする必要ないと思うけど
日本人会の会員の多くは日系の企業だからそうも言ってはおれないのだろう。

結局、今年は @ポスターははらない。A 公安の出席を要請する。 
ということで開催することになった。
ま、そういうことなので、チケットの日時・場所は伏せることにした。





  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
結婚して新居は神戸甲南台に新築した。
開発直後の土地を買って、その土地を担保に金を借りて建てたちっちゃなプレハブ住宅である。
ここには妹も一緒に三人で住んだ。妹は後に宝塚にアパートを借りて出て行った。
ここで長男が生まれ、長女がうまれ、長男が結婚し、長女が結婚した。
何年かして周りに立派な家が建ち始めたので、
その対抗上、妻の親戚の設計士に設計をしてもらってかなり立派な家に建て替えた。
その間、数ヶ月小さな家を借り家具の倉庫代わりにして住んだ。
もっとも私はその時、兵庫教育大学大学院に内地留学中だったので、2年間大学の寮に住んでいた。
ここで、定年退職を迎えた。






   11月22日  (月)


それにしても早過ぎはしないかい?
まだ、12月にもなっていないのに 
もう、クリスマスの飾りだ。

これは天津伊勢丹の玄関前だから
クリスマスが終わると「門松」に変わるのだが
これから始まる町中のクリスマスは
3月、4月はまだいい方で
夏まで、雪とトナカイの飾りが残っているところも多い。


今日はちょっと用事があって天津日本人会にいったのだが、ここは日曜と月曜が休みだった。大失敗。
仕方なしに町をぶらぶらして少し買い物を来て帰ってきた。
右端の写真はスーパーで買ってきた香水入り蝋燭というやつである。


「父のことば」読了。
全体としてあんまり面白くはなかった。
個人的な思い出というのもは
ひとが読んで面白いというものでもないのかも知れない。

その内の一節だけを紹介する。

その日も彼は、私のアパjトに来ていた。
あれは何時ごろたったろうか……たぶん、午後八時は回っていたと思う。
アパートのドアを叩く人がいた。
父であった。
よほどのことがない限り外出することのない父がどうして・・・?と、
とても驚いたことを覚えている。(中略)

「遅くなってしまったので泊めてくれないか」
小さな声で父は言った。
私は混乱した頭の中で、こんなことは一度もなかったし、
よくよくの事情だと思いつつも、彼のいる部屋に招き入れることもできずにモタモタしていた。
そのとき彼が私の袖を引き、低い声で一言「帰せよ」と言った。
それから私はどうしかのだったか・・・・寒い夜、しかも雨の中だというのに、父の顔も見ずに「帰って」とでも言ったのだろうか、
それについてはまったく思い出せない。
ただ、父の足音が遠ざかって行くのをぼんやりと聞きながら、
飾ってあった薔薇の花が妙に白々しく見え、心は空しく冷えきっていた感覚だけが記憶に残ている。(中略)

父が突然いなくなり、警察に捜索願いを出した私たちは、父を知る人たちにも訊きまわったが誰も父の行方は知らなかった。
行方不明になって一週間ほど過ぎたある日、父本人からコートなど身の回りの品と遺書が送られてきた。
遺言には、「皆元気で、仲良くやってくれ」といった当たり障りのないことしか書かれていなかった。
父が送ってきた荷物を手掛かりに、私たちが辿り着いたのは鳴門海峡だった。
本州から四国に渡る連絡船の乗船名簿には、確かに父の筆跡で名前があった、果たして下船したのだろうか?消息はそこで途絶えていた。



「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
エジプト B
1992.12.29.
  〜93.1.5.

ハトシェプスト女王の神殿では私たちが行く少し前に爆発騒ぎがあったそうだし、
カイロ博物館の前の道ばたで、座り込んで当地の老人と話しををした(?)が、
数日後にまったく同じその場所で爆弾が爆発した。
物騒なところであったんだな。 今はどうなんだろう?

カイロの博物館はもちろん撮影禁止である。
しかし、裏口から入場した私たちは、ガイド(?)が同行してフラッシュ撮影も自由。
それで撮影したツタンカーメンのマスクである。







   11月21日  (日)


土曜日は「天津日本語教師会」
最初は「私の授業紹介」
写真は他のホームページ(日語学習サロン・ジャスロン)から借用したものです。

インターンシップとやらで来ている日本の大学3年生の学生が、
中国の大学で日本語教師をしている。 
ちょっとええかげんじゃあないのか(中国の大学側が)
という気もするが、
学生にとっては若くて生き生きとした「先生」の授業は
楽しみで得るところも多いだろう。
教える「学生」の方も得るところはすごく大きいはずだ。

発表内容を聞いてもそれが伝わってくる。

百人近い学生対象の大教室での「日本文化」の授業なのだけれども
取り上げている題材、導入へのエピソード、学生との会話、学生の発表等の展開の仕方など
ほんとうにすばらしい。授業がいきいきしている様子が伝わってくる。
でも、きっと、何年か教師をやった経験者なら、
百人対象じゃあなぁ、とあきらめてしまうかもしれない。それをおそれず、やって成功させている。
経験者、熟練者がもう一度学ばねばならないところだなあ、と思ったことであった。


日曜日は一日家にこもって、ビデオ「ラブレター」を見たり
本を読んだりしていた。

左の「別れてもバカな人」読了
父親からの性的虐待、できちゃった婚、夫の暴力、姑との激しいバトル、
育児ノイローゼ、パニック発作、年下男との「不倫」……
そして離婚即復縁、なんてもありの激しい人生を爆走する癒し系官能小説家・内藤みかの女道。
大笑いできるけど、かなリ深い。ほんとうに「バカ」なんたけど、
すごく共感できる、さらに感動すら覚える(?)傑作エッセイ!

という小説である。
彼女(著者・内藤みか)の夫のあとがきというのが面白いので紹介する。

夫あとがき
 まさか自分たちの体験がこういう形で出版されるとは思ってもみなかった。
 そうと知ってれば暴力なんかふるわなかったかもしれない。
 周囲の人たちは、「どうしてあんな女と復縁したんだ?」と思っている人が多い、
 最大の理由は子どもと一緒にいたい、いてやりたいからだが、それがすべてではない。
 内藤みか個人については、確かにどうしようもない面はあるが、私好みのじやじゃ馬である。
 私は家事もろくにうまくできないようなのが好みなのだからしかたがない。
 が、文中に書かれていた良明とかいう男とのこと、これを許して復縁したのはなぜだろうか。
 「好きな人ができた。あなたとは比較にならないくらいいい人で、彼のためなら仕事も子どもも捨てていいと思っている」と言われた時は、
 さすがにかなリダメーシを受けた。人格をすべて否定されたような気がした。
 だが当時、暴走型の彼女のパートナーを務めることは私には荷が重すぎるような気がしていた。
 その彼なら彼女を幸せにできるかもしれなぃ。それでいいではないか、と思って自分を慰めた。
 社宅に舞い戻ってきた直後、彼女はこの「浮気」のことを平謝りに謝リ、できもしないこと、
 たとえば私の両親と仲良くするとか、私の生き方に干渉しないとか……もたくさん誓った。私はころっと騙された。
 結局、先にも書ぃたが、彼女のパートナーを務めるには私では役不足かも、と思う日々が今も続いている。
 私は彼女の望むような明るく賑やかなパートナーには決してなれない。
 できることは皿洗いや子守りなどの労働力の提供、子種の提供(この任務は第二子の誕生とともに終了)、くらいである。
 復縁当初、私は内心焦っていた。このままではまた彼女は他の男の元に走り、私たちは同じ騒動を繰り返すのではないか、と思ったからだ。
 ああいう修羅揚はもう二度とごめんなので、正直言ってその時は、私は完全に彼女と縁を切る覚悟であった。
 しかしこの状況を彼女は自力で打開してきてくれた。
 ホストクラブ通いを始め、自分の望むオトコの役割をホストに託したのだ。
 私がよく受ける問いに「なぜ妻のホストクラブ通いを許すのか?」というのがあるが、妻が望む完璧な男にはなれないからだ、というのか答えである。
 私の口べたは永遠に直らないだろうし、気の利いたジョークも言えない。
 私がわざわざ「話し方教室」などでトークの技を身につけるよりも、自分か苦手な部分を外注に出したほうか効率がいいとも思っている。
 妻は深夜の歌舞伎町で若い男たちに威張り散らしたり、笑い転げたりして日頃の鬱憤を晴らしているらしく、
 我が家でハつ当たりする回数も激減した。とても素晴らしいことたと思っている。
 ちなみに、肉体の貞操は守っている、と彼女が言っていることを、彼女の名誉のためにつけ加えておくが、真偽のほどはわからないしあまり興味もない。
 結局、ホストクラブ通いというのが、 一連の離婚騒動か辿り着いた私たち夫婦の平和的解決策であった。
 家庭の平和がかかっているのだから、ホストクラブには、この不況のなか、まだまだ煩張っていてもらいたいものだ。
 そうすれば妻はそこでストレスを発散してきてくれて、我が家の平和も続くだろうからだ。

 二〇〇二年五月   内藤みか夫記す





  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
桜口の家は、父が死んで旅館が継続できなくなり、神戸深江の建て売り住宅に引っ越した。
二人の兄は既に独立していたので、ここには母と私と妹の三人が住んだ。
海のすぐ近所の家だった。ここから同志社大学に通った。
母が「お好み焼き屋」をするというので神戸甲南商店街に引っ越した。
ここで淡路島の柳学園に国語の教師として就職。一年間洲本に下宿した。
これは一年でやめて尼崎市の公立中学校の教師に採用された。この家で母が死んだ。
なんとか母が生きている間に、との準備は間に合わなかったが、母の死後すぐに結婚した。






   11月19日  (金)


今日は「薦福観音寺」という国家AAA級のお寺を見に行った。
ずいぶんけばけばしい金色満載のお寺であったが、現役の宗教活動を行っているお寺ではある。
入場料が3元で、老人割引はなかった。



このお寺に行く前に立ち寄ったのが「元明清天妃宮遺跡博物館」である。
初めはマリア様の像が立っているのかと思って近づいていったら、そうではなかった。
多分、古文化街にある「天后宮」の総合的な博物館なのであろうが、よく解らなかった。



津河というが、この標識のところから突然始まる「河」である。
だから水はあるけれども流れてはいない。天津にはこういう「河」がいくつかある。
我が家の前も見た目は立派な「河」だが流れがないため、よどんで悪臭がひどい。
匂いは写真には写らないから、写真用の河なのかも知れないな。
毛沢東のポスターを路上に並べて売っていた。こういうのもまだ売れるんだね。



天津の地下鉄とバス。
地下鉄は速くてきれいだ。昼間は10分おきぐらいだが、ラッシュ時には4〜5分間隔で運転している。
バスは一概にきれいとはいえないが、このごろはずいぶん良くなった。
路線網はホント網の目のようでどこに行くのにもバスで間に合う。
ただ、いつ来るのかはさっぱり解らないので30〜40分ぐらい待つつもりが必要だ。
それにどこで停まってくれるのかも分からない。写真の人たちは並んでいるのではない。
もし、この辺に停まれば先頭で乗れると思って待っている人たちである。

値段は地下鉄が3元、バスは冷房付きが2元、冷房なしは1.5元である。
ちなみにタクシーは初乗り8元である。
日本と比べると交通はべらぼーに安い。



「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
エジプト A
1992.12.29.
  〜93.1.5.


アブシンベル神殿、ハトシェプスト女王の神殿などいろんなところに行ったが
当時は当然フィルム写真なので、そのほとんどは日本に残したままで、記憶も薄れてきている。
王家の谷(写真下左)のツタンカーメンの墓に入って壁面の石をポケットに忍ばせて帰った。
あの石はどこにいっただろう。そういえばナイルの水も汲んで帰ったな。
ナイルクルーズでは島に上がって現地の人の家を訪ねたりもした。 アスワンハイダムにも行ったな。
エジプト滞在中は市場で買ったエジプトの服(ガラべーヤ)で過ごしていた。





   11月18日  (木)


いま、TBS愛の劇場40周年記念番組「ラブレター」という
全60話の長いDVDを見ている 

全聾の少女が養護施設から小豆島にもらわれてきて
小・中・高、大学、そして多分大人になるまでの恋愛物語である。
物語そのものよりも、
この少女に関わる会話はすべて手話で行われるので
手話の勉強になる。
私も40話まで見て、
簡単な会話だったら手話で出来るくらいになった。(と思う)


これを視ていてつくづくかんじたことがある。
今の私の生活ってほとんど全聾に近いなぁということである。
もちろん、iPHne で音楽も聞く、テレビもDVDも視聴する。
しかし、生活の根幹の部分はパソコンでブログを書き、メール日本語塾で授業を行い、
人との意思疎通も電話もあるけれどもメール日本語塾が中心である。
全く声を聞かなくても、声で伝えなくても生活できるようになっており、
声を使わずに生活している部分がなんと多くなっていることか。

黙々と飲むコーヒーの数々。
モカ、コロンビア、ブルーマウンテン、UCC・・・・勿論みなブレンドである。
それにバリコーヒー・・・・これはパウダー状なのでエスプレッソとして飲んでいる。
毎朝はココアか柚子茶である。
そして、上のDVDを視ながら、おでんで一杯、である。全聾でもできる生活だ。





  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
私はかなりの回数、引っ越しをした。私の住宅史を数回にわたって・・・・
生まれたのは多分、阪急春日野道駅前の「つるや」旅館だろう。勿論記憶はない。
これは父がやっていた旅館である。神戸の大空襲で消滅した。
消滅の直前に、住所は忘れたが元陸軍大将の旧宅とかいうでかい家に引っ越した。
ここも引っ越してすぐ神戸大空襲で消滅。
その後しばらく阪急電車の高架下などで過ごした後、丹波の田舎へ。
また、神戸上筒井に家を建て、ここで小学校に入学。
4年生の時、神戸篠原本町に引っ越した。高羽小学校を経て六甲中学校に入学。
中学の時、父が神戸桜口町で旅館を経営することになってそこに転居。
ここは家の中に池が2つもあり、独立した茶室もある立派な門構えの家だった。






   11月17日  (水)


1月に一時帰国するための船(燕京号)の切符を買いに行った。
先日インターネットで予約をしたら、1等A 往復 3340元+オイルチャージ 300元といわれた。
前と比べてえらい高いので、天津遠洋大厦にある燕京号の事務所に電話をしてみると
1等Aで 2540元+オイルチャージが1月から値上げして 400元 計 2940元という。
遠洋大厦の人に燕京号はいつも空いているので1月になってからでいいですよ、といわれたが
その頃になったら 3340元に値上げされているかも知れないので、即 購入に行った。

天気もよかったし、えらい得した気分になって、ぶらぶら散歩しながら帰った。
天津の街はどんどんきれいになっていっている。
「金融博物館」は開館が2時からというので、見なかった。


西洋美術館と天津郵政美術館に入った。
どちらも無料であるが郵政博物館などはまるで公開していないかのようなたたづまいであった。
  

それから中心公園でかなりの時間中国将棋をみて、濱江道にいき、吉野屋で牛丼を食って帰った。
  



「思い出ぽろぽろ」のコーナーは
文字だけだったが、このシリーズ では写真を中心に旅の思い出を
綴っていきたいと思っている。
エジプト @
1992.12.29.
  〜93.1.5.

エジプトには妻と息子の三人で行った。
とにかく、広いというか大きいというのが第一印象だった。
冷房の効いたホテルから一歩でるとガ〜ンと体に衝撃を感じるほど暑かった。
でも外は温度は高いけれどもカラッとしていて、それほど苦痛というわけではない。
このころはまだスフインクスの膝に座ることもできたし、クフ王のピラミッドに登ることもできた。
夜はもスフインクスのすぐ後の広場で、「音と光の祭典」というのもあった。



   11月16日  (火)


昼、いなり寿司を作って食った。

それから、10日ぶりくらいかな、スポーツクラブに行った。
一週間 休館だった間に
マシンの椅子とかの皮が張り替えられて
きれいにはなっていたが
サウナは相変わらず壊れたままだった。
がっかりである。



  ・・・・・・ 何の脈絡もなく、七十年のよどみの中から、かつ消え、かつ浮んでくる よしなきことを そこはかとなく 書き付けていきます。 ・・・・・・
    
終戦後しばらくしてのことである。いつもお腹を減らしていた。
そういう時、大豆を持っていけばパンと交換してくれるという催し(?)があった。
我が家では枕に大豆を入れていた。
さっそく親子6人分の枕をほどいて、
少し変色していた大豆を別の袋に詰めてパンと交換してもらったことがあった。






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