![]() 定年退職後、一ヶ月は帆船「あこがれ」に乗り、そのあとすぐに三ヶ月地球一周の旅で客船オリビア号、 一ヶ月語学短期留学で雲南大学の寮、一ヶ月同じく語学短期留学で北京語言文化大学の寮、 半月西尾研修所と外泊が続き、 2001年天津商学院(現天津商業大学)に赴任、五年間そこの寮に住んだ。五年が最長期限ということで商業大を退職、 修曼職業学校に就職、学校の近くの民間の家をかりて住んだ。ここで妻と離婚をすることになってしまった。 修曼は一年で辞め、天津海光寺近くに家を借りて住むことになった。 ここでは新天空日語、連邦教育などで臨時講師を勤めたが、結局再び商業大学に時間講師として戻った。 海光寺の家は2年間住んだが家を売るので立ち退いて欲しいと家主に言われ、 現在の家に引っ越して、今、二年目となっている。 |
![]() 結婚して新居は神戸甲南台に新築した。 開発直後の土地を買って、その土地を担保に金を借りて建てたちっちゃなプレハブ住宅である。 ここには妹も一緒に三人で住んだ。妹は後に宝塚にアパートを借りて出て行った。 ここで長男が生まれ、長女がうまれ、長男が結婚し、長女が結婚した。 何年かして周りに立派な家が建ち始めたので、 その対抗上、妻の親戚の設計士に設計をしてもらってかなり立派な家に建て替えた。 その間、数ヶ月小さな家を借り家具の倉庫代わりにして住んだ。 もっとも私はその時、兵庫教育大学大学院に内地留学中だったので、2年間大学の寮に住んでいた。 ここで、定年退職を迎えた。 |
![]() 結婚して新居は神戸甲南台に新築した。 開発直後の土地を買って、その土地を担保に金を借りて建てたちっちゃなプレハブ住宅である。 ここには妹も一緒に三人で住んだ。妹は後に宝塚にアパートを借りて出て行った。 ここで長男が生まれ、長女がうまれ、長男が結婚し、長女が結婚した。 何年かして周りに立派な家が建ち始めたので、 その対抗上、妻の親戚の設計士に設計をしてもらってかなり立派な家に建て替えた。 その間、数ヶ月小さな家を借り家具の倉庫代わりにして住んだ。 もっとも私はその時、兵庫教育大学大学院に内地留学中だったので、2年間大学の寮に住んでいた。 ここで、定年退職を迎えた。 |
![]() 桜口の家は、父が死んで旅館が継続できなくなり、神戸深江の建て売り住宅に引っ越した。 二人の兄は既に独立していたので、ここには母と私と妹の三人が住んだ。 海のすぐ近所の家だった。ここから同志社大学に通った。 母が「お好み焼き屋」をするというので神戸甲南商店街に引っ越した。 ここで淡路島の柳学園に国語の教師として就職。一年間洲本に下宿した。 これは一年でやめて尼崎市の公立中学校の教師に採用された。この家で母が死んだ。 なんとか母が生きている間に、との準備は間に合わなかったが、母の死後すぐに結婚した。 |
![]() 私はかなりの回数、引っ越しをした。私の住宅史を数回にわたって・・・・ 生まれたのは多分、阪急春日野道駅前の「つるや」旅館だろう。勿論記憶はない。 これは父がやっていた旅館である。神戸の大空襲で消滅した。 消滅の直前に、住所は忘れたが元陸軍大将の旧宅とかいうでかい家に引っ越した。 ここも引っ越してすぐ神戸大空襲で消滅。 その後しばらく阪急電車の高架下などで過ごした後、丹波の田舎へ。 また、神戸上筒井に家を建て、ここで小学校に入学。 4年生の時、神戸篠原本町に引っ越した。高羽小学校を経て六甲中学校に入学。 中学の時、父が神戸桜口町で旅館を経営することになってそこに転居。 ここは家の中に池が2つもあり、独立した茶室もある立派な門構えの家だった。 |
![]() 終戦後しばらくしてのことである。いつもお腹を減らしていた。 そういう時、大豆を持っていけばパンと交換してくれるという催し(?)があった。 我が家では枕に大豆を入れていた。 さっそく親子6人分の枕をほどいて、 少し変色していた大豆を別の袋に詰めてパンと交換してもらったことがあった。 |